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アタシは、リン。
アタシは昔、親の暴力とか、色々あって言葉がしゃべれなかったんだ。
ある日、アタシの街にケンってコが流れてきた。
吹いたよw マジで。
肩パットの付いた変なレザージャケット着てるんだ。
アタシは、「レイザーラモンリスペクトかよ」って言ったんだけど、その頃ツルんでたバットは「違うよ、昔の映画『マッドマックスU・V』のパクリだよ」って言ってた。
正直よくわかんない。
大人たちは、ケンを牢屋に入れちゃった。
いつも大人はそんなだ。
正直よくわかんないけど。
アタシは、喉が渇いてるケンに水を持っていってやった。
アタシって、時々そういうトコあるんだ。
損だって分かってても、人に優しくしちゃう。バカだね。
ケンは、アタシの頭をグリグリしてくれた。
なんか、「飛行を着いた」とか言ってた。よくわかんないけど。
その後、なんか井戸のトコに大っきなモヒカンとか来て、「この井戸はこれから俺たちのモンだ、ぐえへへへ」とか言って、暴れてた。
怖かったよ。
アタシは暴力は嫌いだ。
お爺さんがぼこぼこにされてた。
アタシは止めに入って、殺されそうになったよ。
そしたら、声が出たんだ。
ケェェェェェン、て。
そしたら、ケンが来てくれたんだ。
ケンは、「あたたたた」とか、「おおわちゃぁぁぁ」とか、「お前はもう死んでいる」とか、「一歩でも動いてみろ、ボンだ」とか言ってた。
よく分からなかったけど、ミンナくちゃくちゃになって死んだヨ。
それで、アタシはケンに付いて行くって決めたんだ。
to be continued...
自分が他の人と違うと気付いたのは何時頃だったろう。
私は時に皆の見ないものを見、聞かぬ音を聞く少年だった。
私の家の中では、テレビの裏が霊的エネルギーの高い空間だったらしく、そこに頭を突っ込む度に、私は両親には聞こえぬ「キーン」という異音を耳にした。
青年期になっても異常現象は収まらず、友人の部屋にたむろって麻雀をする時は、必ず私の所に皆の煙草の煙が集まった。
コンビニエンスストアでは、私が店内を歩くとFM放送が乱れた。
あと、顔を見ただけで猫の年齢性別が分かった。
一目見ただけで、男の子だとか、おばあちゃんだとか分かるのだ。
そしてまた私は、霊をよく見た。
子供の頃沢山の猫と一緒に過ごした時期が有ったせいだろうか、特に猫の霊をよく見るのだ。
人と歩いていても、誰も気付かないのに私だけが駐車車両の下の猫に気付く。
「今、居たよね、車に下に、おばあちゃんが」
などと言うと、皆は
「気持ち悪いこと言わないでくれよ」
「そんなトコに居るわけないじゃん」
と異口同音に驚いた。
しかし、霊的存在は何処にでも居るのだ。
皆が心の目を閉ざしているだけで、少し視野を広げれば誰にでも見えてくるものなのだ。
それらは、建売の家と家との隙間の塀の上に、学校の前の水のない排水溝の金網の下に、操車場のトラックの大きなタイヤの上に、畑の茄子の畝の間に、居る。
畑に居る霊は大抵排便だ。
霊は怖いものではない。
むしろ霊の方が貴方を怖れている事の方が多い。
だから時には、道端で霊を見つけたら、静かにしゃがんで「チッチッチッ」と呼んでやって欲しい。
近づいてきたら、威かさぬようにゆっくりと撫でてやって欲しい。
霊の背を撫でる柔らかな感触は、きっと貴方の魂を癒すものになるだろう。
A:何で○○って、すぐに「電話しようよ」とか言うのかなぁ
B:○○か、あいつには、そうしなきゃならない理由があるんだ。
A:なに?
B:昔、ここと違うチャットで話が合う自称27才の女子を好きになってね
その時はすぐに声聞かせてとか言わずに、ただ色々話をして
5ヶ月愛を語り合って、初めて会うことになったんだ
で、電話してきてよ、って番号教えたら
「もしもし?電話しちゃったXXです…」
って、かかってきた声が、何となくヨソ行き仕様のお母さんの声に似てたんだ
まさかと思いつつ、作り声でぼそぼそ応対しながら、忍び足で1階に降りると
見たことの無い携帯で、嬉しそうに話す母親の姿が…
A:きゃー!
B:それ以来、奴は知り合った女性キャラにまず通話を求めるようになったんだョ
お母さんでないことを確かめるために…
通報があったのは4月1日の朝だった。
隣の住人が開いているドアに不審を抱いて覗き込んだ所、死体を発見したと言う。
松田と梶原は、すぐに現場に飛んだ。
「背中を一突きですか」
「うむ、争った形跡も無い。顔見知りの犯行だな」
「手がかりになりそうな物は…む!」
松田が、ガイ者の右手の先に落ちている携帯に目をとめた。
「携帯電話が開いています。誰かと通話中だったのかも知れない」
松田は手袋をした手で携帯をつまみあげた。
ボタンに触れると画面が明るくなった。
「通話じゃありませんね…これは、チャットです」
「ほう、それでも手がかりになるかもしれん。
最後の言葉が残っていないか?」
「どうやら、独りで喋っていたようです。
発言は残っています。…しかし…」
「何だ?」
梶原が先をうながした。
「意味不明な文字が書き込まれているんです」
「何!それはいわゆるダイイング・メッセージかも知れん。
見せてみろ」
梶原が画面をスクロールアップすると、そこには謎の単語が書き連ねてあった。
------------------------------彦にゃん(4/1-5:36)
業
------------------------------彦にゃん(4/1-5:35)
卒
------------------------------彦にゃん(4/1-5:35)
桜
------------------------------彦にゃん(4/1-5:33)
花
------------------------------
A:なんで○○ってすぐ「それ僕も好き」とか「ああ、XXね」とかシッタカするのかなぁ?
「俺それ苦手」とか「それ何?知らない」って言えばいいじゃん
B:○○か、あいつには、そうしなきゃならない理由があるんだ。
A:なに?
B:昔、あいつが政府の要職についていた頃…
ある日の帰宅途中に、彼は見知らぬ男4人に拉致された。
そして、当時関わっていたある軍事施設の所在について、執拗な尋問を受けた。
彼はその事柄については本当に何も知らなかったので、知らないと答え続けていたのだが、3日目に入って連中は非道な手段に訴えた。
「目を開けな、ミスター・タフガイ」
冷たい目をした男が言った。
○○が腫れ上がった瞼をなんとか上げると、そこには妻の姿があった。
「あなた、助けて!」
猿轡を外された彼女は、○○に助けを求めた。
「美代子!」
彼は力の限りもがいたが、縛り付けるワイヤーはびくともしない。
「さあ、ヒーロー、お前にとって一番大事なのは、奥さんか、腐った母国なのか、選んでもらおうか」
「妻だ、美代子だ。知ってることは何でも言う。だが、基地の所在は本当に知らないんだ」
「ブッブー。その答えじゃだめだ。ミスター・カウボーイ」
「本当に知らないと言ってるだろう!頼む!美代子を放してくれ!」
文字通り血を吐きながら訴える○○に、男は、退屈そうにナイフを弄びながら言った。
「いいか、話すか、奥さんを失うかだ。それも、少しずつな。正直、俺はどっちでもいいんだぜ…」
○○が救出されたのはその2日後。
彼は衰弱していたが生還した。
だが、奥さんはもう…
B:それ以来、彼はどんな質問にも「知らない」と答えることができなく
A:絶対嘘!
少年漫画でよく取り上げられるスポーツの一つにボクシングがある。
格闘技好きの少年にとっては、柔道や相撲よりも格好よくて絵になりやすい、マンガ向けの題材と思えるジャンルなのだが、実はボクシングのマンガ化は難しい。
野球の投手と打者のような足を止めての対決ではなく、両者が絶え間なく位置を変えながら打ち、避ける攻防なので、マンガのような静止した絵で表現するのが困難なのだ。
そこで、この稿では日本のボクシングマンガの表現を切り開いて来た先達の仕事を振り返り、いかにして我々のマンガ文化が、複雑な身体表現の技を手に入れてきたかを追って行きたい。
というか、昔からボクシングマンガが好きなのよ、ワシ。
ちばてつや先生である。
日本のボクシングマンガの金字塔にして、後のヤンチャボウズやヤンチャボクサー達に「両手ぶらり戦法」を吹き込んだイケナイマンガなのである。
ジョーの八方破れな性格の印象に反して、彼のスタイルはストレートボクサー。
フォームもオーソドックスなアウトボクサーのそれだ。
パンチ表現は静止画で、フィニッシュブローの体重を乗せた、手の伸びきった姿にリアリティがあった。
ちなみに、彼のキラーパンチ「クロスカウンター」の「クロス」は、「手を交差させてお互い殴りあうカウンター」の意味に取られがちだが、相手のガードあるいはパンチの外から顔を狙う、ピッチングのフォームに似た軌道のパンチを表す通常のボクシング用語である。
実在のボクサーでは、ユーリ・アルバチャコフがフィニッシュブローとして綺麗な右クロスを使っていた。
ボクシング描写は、フライ級位のスピード感と迫力。
ちば先生の絵は、動きの表情を捉えるのが抜群に上手かったが、やや軽い。
しかし、ジョーの少し猫背に見える細い体躯は、ボクサーの美しさを簡潔に、しかし的確に表現しており、これがその後のボクシングマンガの作画の標準を定めたと言えよう。
小山ゆう先生作。
これもボクシングマンガの歴史を作った名作であった。
絵柄的に画期的であったのは、何と言ってもパンチを効果線のみで描いた事である。
漫画家としては、パンチを打った瞬間の筋肉の様子や肩の入り方、肘の返り方など描きたいディテールが多かったであろうに、中軽量級ボクサーの引きの早いパンチを表現すべく、あえて肩から先をぶらす描き方を選択したのだ。
構えはオーソドックスだが小山氏の描くボクサーはちば氏に比べて上体が硬く、やや猫背で懐の深いボクサーらしい佇まいに乏しい。
そのかわり直線的なスピード感の表現は抜群で、試合のシーンは常に息の抜けない緊張感が漂う。
ボクシングをスポーツとも、梶原一騎的な「男のケンカ」とも違う「壊し合い」として描き、殴り合うシーンの痛さ、残酷さでは未だにこれを超える作品を見ない。
最終巻、元気と関との死闘の終盤、互いの脳を揺らしつつ足を止めて打ち合う2人の姿には、思わず「どっちが勝ってもいいから、もう終わってくれ」と叫びたくなるような残酷な迫力があった。
一撃を受けると顔が歪み、頭がぶれるその表現は、実際のボクシングではミドル級あたりの試合を思わせるものである。
人体の構造を上手く表現できるという意味の、いわゆる「絵の上手さ」とは別の、マンガの表現力というものを見せてくれる作品であった。
先日、桑田真澄投手が引退を表明した。
巨人に戦力外通告されメジャー挑戦するも、怪我に泣かされ、それでも足首の手術をして再起を図っていたのに、ついに力尽きたのだ。
阪神ファンだった僕にとって、全盛期の桑田は単に嫌いな選手だった。
うまいこと巨人に入ったし、目が陰険だし、ほくろが多いし。
が、一昨年だろうか、彼が引退か移籍かと噂されていた頃、ブログを見て一気にファンになった。
抑制の効いた丁寧な文章で、彼の思いが綴られていた。
「野球を愛している。もっと続けたい」
投手生活の後半、武道家甲野氏に師事して古武術を学び、投球術に応用するなど「大丈夫かこの人は」と思わせる一面もあったが、それも彼の野球への愛故だったのだ。
子供の頃から野球選手に憧れ、目指し、少なくとも中学以降は生活の全てをほぼそれだけに費やし、尚、一日でも長く選手でいられるようにと、彼は心を砕いていたのだ。
40代と言えば、普通の仕事なら中堅どころ、管理職にはなってもまだ現場を離れていない年頃だ。
むしろ、やっと自分の好きに仕事が出来るようになる頃と言っていいと思う。
僕は今の仕事に成り行きで就いたが、それでも面白いと思っている仕事を「そろそろ引退したら」と言われたらショックだ。
人が聞いたら笑うような大それた夢を真剣に抱いて、他人の出来ない努力をして、やっと手に入れた仕事から20年もしたら引退しなければならないなんて、スポーツ選手(ゴルフを除く)というのは、なんと過酷な人生だろう。
彼の引退の記事がニュースサイトに載った27日、同じページにはダルビッシュの、"息子に捧げる18イニング無失点"の記事が踊っていた。
>本当に世の中には、永遠なものはないよね。
引退の日の、桑田投手のブログの言葉である。
「このAIは迷信を信じるんだよ」
情報工学の坂田が言った。
「迷信?」
「タガルには甘いメッカミが効くとか、ロドムに襲われて偶然死ななかったマグヨーは神の子だとかね」
「変な固有名詞がいっぱい出てきたが、それは仮想世界の疫病や食物や肉食獣や人名なんだろうな。
で、なんだって迷信を信じる機能なんてつけたんだ」
「そうしないと、文明が生き残れないからだよ」
坂田は嬉しそうに言う。
「僕が進化論的文明の発達をシミュレートしようとしてるのは知ってるだろう?」
「ああ」
「それがさ、論理的思考を生得的に埋め込んだ個体群は、すぐに死滅してしまうんだよ」
「なぜだい?」
「疫病にしろ、天候の変化にしろ、知的生命体に立ちはだかる困難というのは、その原因を解明するよりも前に、まずとり得る対策をとらねば即集団の存亡に関わるようなものが多いんだ。
そんな時は、たまたま病気にかかる前にある草を口にしていた者が助かったなら、例え合理的な根拠は薄弱であっても、それが効くと信じて情報を共有する事が集団の生き延びる術だったんだよ。
勿論、経験の積み重ねと言う篩にかけられる前には、『赤い服を着ていれば助かる』だの『神の水を飲めば助かる』だのと言った純然たる迷信もはびこるんだけどね」
「それは面白いなぁ」
僕にも漸く事態の面白さが分かってきた。
「カントは理性的認識の枠組みがアプリオリに人間に与えられていることを証そうとしたが、真にアプリオリだったのは妄信の方だったと言う事か」
「そして、文明の黎明期に真に役立ったのは、そっちだったと言う事だ」
陽気なカモメ 六田登、タフネス大地 大和田夏希。
六田登先生は人の動きを描くに才のある人ではないが、主人公のパンチの超絶スピードと、どんな体勢からでも腕だけで必殺の一撃を繰り出せるライバルの、ズシリと重そうなパンチの描き分けが成功していた。
速い打撃の描き方は、複数の腕を効果線で描く"元気方式"であった。
主人公の「両手で相手の頭を挟むように打つ」という必殺パンチが反則に当たると言うので、後から「ほとんど同時に見えるほど素早く両手で打っている」と解説させたりしたことで、シリアスなボクシング漫画としては評価されないことが多い。
大和田夏希先生の作品は、その筋肉質な肉体表現に特徴があった。
日本のボクシング漫画は、実際の日本人の主戦場となる階級が軽量級であることから、痩せ型の主人公が多く、頑健な肉体でインファイトを挑むファイタータイプが少ない。
この作品は今を時めく「はじめの一歩」先んじて、筋肉質のファイターを主人公に置いたことを評価されるべきであろう。
村上もとか先生である。
分類するなら「筋肉質主人公」であろうか。
ゴツゴツと当たると痛そうなパンチを描くことには成功しているのであるが、彼の描く直線的で軸のぶれない動きはボクシングと言うより武道のそれであった。
村上氏には「六三四の剣」という名作がある。
幼くして父を亡くした主人公が父の夢を継ぎ、因縁の宿敵との決戦を目指して腕を磨くという、「がんばれ元気」とよく似たプロットの剣道漫画なのだが、主人公夏木六三四の暮らす岩手の自然を背景として美しく描きこんだこの作品は、「がんばれ元気」の対極とさえいえるほどの明るいトーンを持っている。
村上もとかの描く、胸を張り正面から相手の目を見据えて闘う、心に曇りのない戦士像は、剣道と言う題材にぴったりであった。
思えば、軽快でしなやかなボクサーの動きを見事に表現したちばてつや氏が「おれは鉄兵」などで描いた剣道シーンが、躍動感はあってもやや気品に欠けるチャンバラめいたものになっていたことと対照的である。
正直へこんでる
日の本一のポジティブシンキング男と自他共に認める俺にして
今日はへこむ一日だった
というか、さっきそうなった
ダチだと思ってる奴に裏切られるって、何時だって最高に最低だ
一番年嵩だし、ちょっとキツく当たっても、汚れ役だと解ってくれてると思ってた
キンカン頭とか、本気で怒るコトか?と、今でも思う(笑)
「見せたいものがあるから」ってのも、釣りだったんだョナ
あいつらまで巻き込んで俺を嵌めて、満足か?
俺のこと負かしたつもりだろうけど、一番欲しがってるモノはやらん
今部屋に火つけたワ
髪の毛一本残さん
蘭ちゃんも死んだみたいだ
もうお別れだね
まあ、いい人生だったよ
夢もほぼ実現したし
俺的には鉄甲船が一番のヒットかな
結局あのサルが跡を継ぐんだろうな…ソコマジ心配
アチチ…マジで火ィ回って北
竜崎遼児先生である。
このシリーズの主眼の一人である。
この人は、一見典型的な劇画タッチで、今の若者には取っ付きにくいかもしれないが、抜群に身体表現がうまい。
特に、黒人スポーツ選手のようなばねのある動きがうまい。
当時、アメリカではトーマス・ヒットマン・ハーンズ、シュガー・レイ・レナード、マーベラス・マービン・ハグラーのザ・ミドル3羽烏が一世を風靡していた。
彼ら中量級ボクサーの、破壊力とスピードを兼ね備えた動きは、日本のボクシングファンをも魅了していた。
竜崎氏は、そうしたスマートなボクサーの動きを見事に絵にして見せたのだ。
体重移動がはっきりわかるフットワーク表現、スナッピーなフリッカージャブ、柔らかく懐の深いボクサーの上体、絞り込まれつつもゴムのように弾力的な筋肉。
黒人中量級選手独特の軽快な柔らかいボディワークを、まるで彼らの試合を見るように楽しめるマンガを描けたのは、私の知る限り、この人と、あともう一人だけです。
「地球のてっぺんって、何処だか知ってる?」
「エベレスト?ちがうちがう」
「それは地球の中心からどれだけ離れてるかだろ?」
「宇宙には、上下なんて無いんだぜ」
「上下ってのは、君が決めるもんなんだ」
「今君が立ってる、頭の方が上、足の方が下」
「そうしたらさ、考えてみなよ、地球は丸いんだぜ」
「どこだって、君が立ってる、そこが地球のてっぺんってことさ」
ま、日本に住んでりゃ自分基準ででも、大抵どっかの山に負けてるんだけどね。
○生前、故人とさして付き合いが無かったのも関わらず、葬礼で「なんで神様って奴は、いい人から順にもってっちゃうのかねぇ」とか言う人に
毒舌家
「自分が人情に厚い人柄だとアピールしたい偽善者に、ありがちな悔やみの文句を披露する機会を与えてやるためじゃない?」
科学者
「好きだった人が亡くなる経験は大きな喪失感を伴い、印象に強く残るからそう思えるんじゃないかな」
新入社員
「○○さんって、いい人だったんですか?」
○実質降格人事で取引先に出向になる社員に、「まったく、上は何を考えてこんな優秀な人間を外に出しちゃうのかねぇ。これじゃ本社が手薄になるばかりだよ」と言う部長に
毒舌家
「外に出すメリットと本社に置いとくデメリットを考慮した結果でしょうね」
科学者
(分かっていて言っているのが分かっているので、何も言わない)
新入社員
「○○さんって、優秀だったんですか?」
僕が怪獣だったら、まず、朝8時ごろの通勤電車の一台を軽く押さえて止めるね。
10分もしたら放してやる。
それでダイヤは乱れて、その電車はすし詰め状態になるわけよ。
で、主要駅に停まる寸前の、パンパンに詰まった奴を摘み上げて、軽くボイルしてアルミの殻ごとかぶりつく。
イカ飯の要領ね。
珍味よ。
あとね、家族と行くなら連休始まりの高速インターチェンジ。
びっしり並んだ車を片っ端から摘み取る。
味噌汁の具なんかにいいよ。
連休終わりはだめ。
取れるには取れるけど、どれも元気がなくって味が落ちる。
なんにしろ、大漁確実なのは日本よ、うじゃうじゃひしめいてるから。
隣のでかい国、中国もいっぱい取れるって?
…ここだけの話、あそこはやめときな、汚染物質が怖いらしいぜ。
子供の頃から、「かわいい」より「美人」といわれた。
高校までは、「大人びてる」というのが誉め言葉だと思っていた。
大学に入って、クラスのコンパで指導教官に間違えられて、自分が老け顔なのだと気付いた。
それでも、「美人だ」とは言われ続けていたし、知的で落ち着いた外見は、人の信用を勝ち取る武器だった。
お陰で一流企業に就職でき、仕事の出来る美人OLと、社内でも一目置かれる存在だ。
誉められるほどにはなぜかもてないが、それは美しさとにじみ出る知性がかもし出す、近寄りがたい雰囲気のせいだと思っていた。
エドはるみが出てくるまでは。
ある日、会社の若い子が
「○○さんて、似てますよね、最近出てきた芸人の…何てったっけ」
と言い出だしたのがはじまり。
今は、親戚の子にもててます。
「おばさん、『グー、ググー』ってやって」
いたいけな子供、などと言う表現があるが、あの「いたいけ」の語源をご存知だろうか。
体に生えている毛は、必ずしも黒々と太いものを抜くのが痛いわけではなく、むしろか細くはかなげな毛のほうが抜くに痛かったりする。
そのことから、はかなげな、線が細く無垢な様子を、抜いたら痛い細い毛に例えて「痛い毛」と言うようになったのだが、言うまでもなくこれは口から出任せである。
しかし、体毛には確かに痛い毛とそう痛くない毛がある。
頬の髭は痛くないが、口の周りの髭は痛い。
口角の脇の毛など、抜いた後の皮膚がしばらくジーンと痺れたようになるほど痛い。
鼻毛も、奥の方はくしゃみこそ出るがそう痛くないのに、入り口付近の間仕切りから生えている短い巻き毛は非常に痛い。
この、痛い毛というのは、元来単なる体毛ではなく、犬や猫の口周りや目の上から生えるヒゲのような、感覚器官の一種が退化したものなのだ。
というのはもちろん出鱈目で、単に口の周りなど感覚神経の多い皮膚から生える毛を抜くと痛いと言うことだろう。
ちなみに、腋の毛を抜くのも非常に痛い。
腋の下には感覚神経が密集しているのだろう。
なぜだろう。腋を敏感にすることで、どう生存に有利だったのだろう。
僕の場合、腋の下の敏感さは、小さ目のシャツを着たときに違和感を感じる役にしか立っていません。
今日も人身事故で電車が遅れた。
おそらく飛び込み自殺で、おそらく首尾よく為遂げられた方が居たのだろうが、ただ迷惑としか感じなかった。
週一程のペースであるそれに、一々痛みなど感じない。
もちろん構内アナウンスも誰々さんが見事な最期を遂げられましたなどと言わない。
これを都会の冷酷さやあるいは末法の世の不人情と捉えてはいけない。
過去において、あるいは現在でも国、地域によって人々は遥かに冷淡に他人の死を扱う。
路上の其処此処に行き倒れの屍が朽ちる巷では、誰も一々心を痛めては居られぬであろう。
他人や動物の生命を大切にするのは、治安の良い社会の特徴なのである。
それは、安穏な暮らしが心の余裕を生むというのではない。
平和ならざる光景を忌み嫌い、他人の命を尊重する市民教育が治安の良い社会を生み出すのである。
江戸幕府は治安を何より大切にする警察政権だったので、江戸市中では大八車を乱暴に引くことすら重罪とされた。
産業インフラの効率を犠牲にしてまで、穏やかな社会を優先したのである。
今、他人の自殺がありふれた迷惑行為と感じられる社会が目の前にある。
それは我々が何かを他人の死よりも優先した結果である。
もちろん私自身容認する。
通勤時間が今の何倍もかかることよりも、週に一度ほどの赤の他人の死を。
先日、久しぶりに元同僚から電話があった。
とにかく使えない奴で、彼が辞めた時は正直ほっとしたものだった。
特に個人的に親しくしていた訳でもないので、「明日会いたい」と言われた時には、悪い考えが頭をよぎった。
新しい会社の営業で、何か売りつけるつもりじゃああるまいか、とか、まあ、そういう類のことだ。
しかし、結局僕は彼に会いに行った。
何故かって?
彼にどんな企みがあるにせよ、僕はそれに引っかからない自信があったからだ。
自分の能力を信頼してたわけじゃない。
彼の無能に確信を持っていただけだ。
会社の近くのファーストフード店で待ち合わせた。
やがて現れた彼は、ワイシャツにカーデガンという、昼休みの市役所職員のような出で立ちだった。
油染みた感じの髪がやや乱れ、シャツにも良く見ると染みはあるし皺くちゃで、まともな生活を送っているように見えない。
落ち着きなく視線を周囲に走らせながら店内に僕の姿を探している。
そのままずっと挙動不審な彼を観察していたい気もしたが、結局僕は声をかけた。
「やあ、杓子さん、おはようございます」
テーブル席である。当然正面に座るであろうと思っていたが、彼は僕の横にどすん、と腰掛けた。
途端にむわっ、と饐えた汗の匂いが押し寄せた。
「あのね、杓子さん。僕はあなたを信頼してるという訳ですよ」
かつて会社で毎日のように聞きながら聞き慣れるという事がなかった不明瞭な早口で彼は言った。
「僕はね、あの、社内の中ではいわゆる負け組グループ的なね、そういうラベルを貼られる会社員と思われがちなきらいがありがちですけどね、実のところ」
息を継ぐ間があって、
「僕の真の姿は、ある任務なんですよ、秘密任務。秘密なんですけどね、国関係の。国関係の秘密の部署に雇われている秘密工作印なんですよ、いわば」
僕は何も言わずに頷く。昔は無能なだけで壊れては居なかったのになあ、とぼんやり考えた。
「駅前第2ビルのチケットショップの横あるでしょう?何って、閉まったシャッターが。そうそう、JTBの前の。そこが秘密の支部なんですよ。自治省の。違うか、内務省の。何か、公安関係の部署ですよ。そこで雇われたんです。
重要な秘密任務なんで、秘密なんですよ。ただの民間人のふりしなきゃいけない訳です。
あなたの会社に居たときもね、その任務が気になって、仕事に身が入らないこともヤブサカでなくて、それで結果として僕自身無能社員というような立場に居た訳ですよ。
でもね、僕はもう嫌だ。今こそ真実を世間に知らしめようと思った訳です。僕が無能だと思う人ばかりでね、もう、そんな人ばっかりで、僕はもう、不公平でしょう?」
何だか解らなかったが語尾が質問になっていたので、狼狽えつつも答を返そうと僕は口をぱくぱくさせた。
彼は構わず先に進む。
「もうね、ぶちまけます。僕の毎日の戦いの日々を、手記にして発表する訳です」
「しゅきにすれば?」
思わず言ってしまった。
幸い彼は僕の言葉など耳に入っていないようだった。
「それでね、ご迷惑でなければ、僕の書いた手記をどこかに発表してもらいたい訳です」
「はあ?」
どこをどう考えればそんな面倒な事がご迷惑で無いかも知れないと思えるのだろう。
一瞬あっけにとられている間に、彼は鞄の中からノートを一冊取り出した。
「これが手記です」
彼の書く文章がどんなものか、僕は良く知っている。
少なくとも仕事上の文書では、非常に頼り無い日本語を書く男だった。
彼の書いた「手記」なるものを読んでみたいという好奇心に、僕は負けた。
ノートを開くと、
『内閣調査室付属(外郭団体)所属 心霊対策委員 佐藤 政義 手記』
と、ページの上に題名らしきものが大きく書いてある。
下に、『別名、封霊探偵』と小さく書き添えてあった。
「なにこれ」
「だ、題名」
「本名公表していいの」
「いいです。や、ま、まずいか。まずいでしょうか?どうしましょうか?」
「まあ、好きにすればいいですけど」
本文に目を通すと、
『近年の若者達は、非物質的なる存在や霊的存在を見落とし、ないがしろにし、強烈なしっぺ返しが待っている。
物質世界の欲望に感性の鈍りたる愚者には到底気付き得ぬ深遠がある。
私は、内閣府の依頼でいわゆる悪い霊と戦う仕事をしている訳だが、そこでも社会の歪みが作り出した現代社会の巨大なシステムの生み出した悪との戦いの毎日である。
この度私は、孤独な戦いの日々の赤裸々な報告をすることで、現代社会に警鐘を鳴らし、私の日々の戦いと苦悩、哀しみ、真実を見てきたものだけが味わう深い悲しみの全てを、誰かに分かち合いたいと思い、この手記を書こうと思います。』
『銀行には霊が多いことは周知の事実だが、決して郵便局も侮れない。郵便局は民営化し、ゆうちょ銀行と郵便局になったわけだが、ゆうちょ銀行の方がとりわけて特に霊が多い。
私は定期預金を崩したいんですがと言った訳だが、霊の憑いている女は、通帳をお持ちで無いとちょっとお手続きでき兼ねますと言った。
私は別にその定期が無くても当然生活に困ることはないのだが、母が私名義でしていた定期預金を私が崩すことを拒む社会に腹が立った…』
そこまで読んだとき、僕の手からノートが奪われた。
「引き受けてくれるんですか?」
佐藤が聞く。
部外者には読ませない構えのようだった。
「何で僕に持ってきたの、その、手記を発表しようって話」
彼は、暫く何も言わずにただ口の周りをぴくぴくさせていたが、やがて
「僕の文章って、難解すぎてわからないとよく言われる訳です」
と、語り始めた。
「それで、会社で文章書くのが上手いと言われていた杓子さんに、普通の人が読みやすい文章に直してもらって、発表してもらおうと思った訳です」
「ああまあ、僕の文章はひらがな多いし、読みやすいよね。意味も通ってるし」
「ほんとは、一般人が知ってはいけないことですし、悪用されたら大変なことなんですけど、杓子さんは人柄も安心できると思って、見込んでのお願いです」
彼の、虚仮脅しの四字熟語や聞き齧りの言い回しを散りばめた、回りくどくて唐突で文法的に正しくない文章を果たして平易で簡潔なものに変換できるか?
また、それ以前に本当に彼の書いたものに意味や筋道があるのか?
不安は大きかったが、先程読みかけた支離滅裂な文章の続きが知りたいと言う欲求に負けた。
「わかった。引き受けよう」
ほっとした様子で表情の緩んだ彼の手から、僕はノートを取り返した。
「まずは大々的に発表しないで、僕のよく書き込むBBSに上げてみよう」
「ありがとう、いいんだ、どこでも。ただ、僕と言う人間が密かに悪と戦って来た事を、この世に残して置きたかっただけだから」
これから死ぬ積もりかと思える発言だったが、変に聞き返して余計な相談を受けるのも嫌だったので、そこには触れずにおいた。
「じゃあ、この題名もわかりにくいから変えていいかな?
下に書いてあるこの『封霊探偵』てのが格好いいから、封霊探偵佐藤政義で…。うーん、佐藤か…。
なんかさ、秘密組織だったら、コードネームとか無いの?ホワイトファングとか、イーグルとか、新宿鮫とか」
「ああ、僕らの組織は、全員同じコードネームなんだ。高橋って言う」
「全員同じならコードネームの意味無いじゃないか。どうやって区別するんだよ?」
「名前が違うんだ。僕はエースだったから『高橋一郎』だった」
「あー、2番目に使える奴は『高橋二郎』だったんだ」
「いや、2番目は女子だったから『高橋不二子』」
「あ、そう」
いいオッサンが「女子」とか言うなよ、と思いつつ僕はノートを自分の鞄に入れた。
「じゃあ、題名は『封霊探偵タカハシ』でいいな?」
「うん」
と言う訳で、僕はここにその手記を発表していくことになった。
内容は彼の書いたまま(と、僕の想像するもの)だが、文章は僕が好きに変えさせてもらう。
事実に反する表現が含まれていても、それは佐藤のせいなので悪しからず。
それでは、佐藤政義(本名)(37才)原作、杓子脚色、『封霊探偵タカハシ』の始まり始まり〜
週に一度の、社内清掃の時間のことである。
いつもの如く「業者雇えよなぁ」等とこぼしながらだらだら作業をする僕に、部長が言った。
「掃除もできんやつにプログラミングはできんぞ」
美味しい発言である。
早速そこここから改訂版の提案があった。
「そうだ。掃除もできんやつに管理職はできんぞ」
「むしろ、掃除もできん管理職はプログラミングもできんぞ」
「喧嘩も出来ん奴にはホントの友情なんか築けんぞ」
「『ホントの』を入れて反論を封じるところが姑息でいいな、それ」
「喧嘩もできんやつに掃除が出来るか」
「どいたどいたー!喧嘩祭りじゃー!」
だんだん勢いだけになってきた。
「掃除もできんやつに女の子の気持ちなんて分かる訳ないのよッ!」
「掃除もできないやつにあの場面でスクイズが決められるか?」
「肺呼吸もできんやつに陸上生活はできんぞ!」
本来は、地味で辛い作業の次に高度な要求を持ってこなくてはならないのだ。
それでこそ、「慢心をいさめる感」がかもし出される。
「ドキュメント作りが出来ん奴に、プログラミングはできんぞ」
正論すぎる。
「論理演算のできんやつにマイクロソフトは倒せんぞ」
こんな感じ?
「掃除もできんやつに、マイクロソフトは倒せんぞ!」
うお!なんか掃除する気が湧いてきた!
会社のPCを新しいものに換えた。
で、壁紙探しをした。
プログラマ(特に制御系)の中には、壁紙を表示するとメモリを食うとか負荷がかかるとか言ってくすんだ青色のデスクトップで作業したがる屋からも未だに居るが、何時の時代の感覚だよ(笑)。
僕は気に入った壁紙が無いと作業が出来ない。
やっとディスプレイの解像度も上がった事だし、是非とも新しいPCに換わった幸福を実感させてくれる素晴らしい壁紙を手に入れなければならない。
色々探したよ。
3DCG、生物写真、フラクタル系、映画系。
で、映画「300」の壁紙にいいのがあったら良いな、と思い物色していたのだが、どれもイマイチ。
何故かと考えた。
あんなに迫力あって痺れる映画だったのに、どうしてスパルタ兵たちの雄姿を写した壁紙に何か物足りなさを感じてしまうのか。
さっき分かった。
洗い物をしてるときに突然分かった。
僕が痺れたのは、地を埋め尽くすように群れて迫り来るペルシャの軍勢の映像だったんだ。
地響きとともに、自信満々で僕らを殺しに来る無数の敵の姿だったんだ。
あの映画の最大の快感は、圧倒的な勢力を前に、心の内で自らの死を決意して、その上で「ただでは死なねぇ、お前ら皆道連れにしてやる」と、筋肉少女帯の「221B戦争」「タチムカウ」のような究極の「キレ」状態になるスパルタ兵にシンクロして、心のリミッターを解除する瞬間にある。
その思いを最も掻き立てるのは、頼りがいのある強靭なスパルタ兵ではなくて、圧倒的なペルシャ兵の群れの映像だったんだ。
ねえかなぁ、ペルシャ軍壁紙。
暑くなって来た所為だろう。
最近とみに頭が悪い。
温暖化の影響もあるかもしれない。
これはもう、地球規模の人災といって過言でないかも知れない。
文章が書けない。
考えがまとまらない。
会社でも仕事が難しい局面に差し掛かったりすると、
「俺は、ビッグシールド・ガードナーを守備表示で召喚して、ターンエンドだ!」
とか、とりあえずライフポイントを守るその場しのぎの考えしか浮かばなくなる。
ニコ動で遊戯王DMを見まくったせいもあるかも知れない。
とにかく、こんなことでは仕事もままならない。
只でさえ慣れないVBでのインターフェース設計ばっかりやらされて苦しんでるのに…。
しかし、どんなに絶望的な局面でも、決して諦めないのが真のデュエリストだ!
俺はこの一枚に全てをかける!
ドロー!
「貴社では何か、温暖化対策をしていらっしゃいますか?」
「そうですねぇ…、早めにエアコンをつけてます」
産科医の報酬引き上げ、小児医療の無料化を行うべきです。
…医療関係者
年金、保険は全額税金で賄うようにし、国籍取得を容易にして流入人口を増やし、そこからの税収で国を支えればいい。
…風俗店経営者
健康サポートソフトや家計簿ソフトなど、大人向けラインナップを充実させて、新たな市場を開拓することで少子化社会に対応します。
…ゲーム機器メーカー
老人介護商品に主力を移行しています。
…紙おむつメーカー
機能性食品及び「なつかし」商品で大人のニーズを掘り起こします。
…菓子メーカー
2次ヲタなので大丈夫です。
…ロリコン某
この板かなりすきなんだけどもっと書いてよ!!!
みんなは、存在感の無い人のことを「影が薄い」とか言うよね。
あれはまあ、単なる言い回しだけど、実際、霊的に弱っていると人間希薄になることがある。
たまに心霊写真なんかで、死ぬ3日前に写真を撮られた人の姿が、半ば透き通って背景が透けていた、なんてことがあるだろう?
普通の人は肉眼でそんな風に見えるわけじゃなく、霊的なものが写りやすい写真にだけ現れるわけなんだけど(余談だけど、デジカメ時代になって心霊写真が減るかと思ったら、そうでもないよね。やっぱり、霊感は人間より機械のほうが強いって言う定説は確かなようだ。)、俺は仕事柄、よくそういうものが見えた。
その日も、俺は悪い霊を捜して街をぶらぶらしていた。
突然、風景の中の何かが俺の注意を惹いた。
頭の上に髪の毛を高く積み上げてる女だ。
その女の後姿に、俺は異様なものを感じた。
白いスカートから、パンツが透けていたのだ。
俺は即座に女の後を追った。
人間の姿が透けて見える場合、考えられるケースは2つある。
一つは、単にそいつの死期が迫っている場合。
霊感の強い人間は、知らず自らの死期を予感し、魂が先走って遊離を始めてしまう。それが、俺のように感覚の鋭い人間には見えることがあるのだ。
もう一つは、強い霊がついている場合。
物質存在に対する霊的存在の割合が多くなると、物質は半透明に見える。勿論、見る側に鋭い感覚があれば、だが。
この場合も、長くその状態が続けば、取り憑かれた人間は霊界に連れ込まれてしまう。
いずれにしても、彼女を放って置くわけには行かなかった。
彼女は帰宅途中だったのか、次第に人気の少ない、寂しい通りに向かっていった。
魔物が現れるとしたら、こういう場所だ。
俺は歩調を速め、間合いを詰めた。
どうやら女性はそれを誤解したらしい、後ろを気にする様子で、こちらも足を速めた。
「これじゃあ、変質者と誤解されてしまう…」
思ったとき、俺はもう一つの可能性に気が付いた。
彼女は、単に薄い生地のスカートを穿いて下着が透けているだけの女性かもしれない!
しかし、俺は考えた。
日本人は、『気を遣う』事を美徳とする民族で、例え真実であってもそれが相手を傷つける事であれば、「言わぬが仏」とか「知らぬが花」とか、いや、逆だったか、とにかくそうした態度を決め込みたがる。
しかし、果たしてそれが本当に相手を思う態度であろうか?
「チャックが開いていますよ」「カツラがずれてますよ」が言えない社会が、「ここ禁煙ですよ」「イジメは駄目だよ」の言えない大人を生み出してるのではないか。
その延長上に「人を殺しちゃ駄目だよ」が判らない子供たちが居るのではないか、と俺は思うのだ。
「パンツ、透けてますよ」の一言が言える、勇気ある大人でありたいと、俺は思うのだ。
今や競歩大会の様相を呈してきた夕暮れの路地裏で、俺は彼女に追いつくや、肩に手を置いて言った。
「あのー、へへへ。パ、パンツ、透けてますよ」
しまった。緊張しすぎで半笑い&どもってしまった。
「キャーーー!」
異音を発しながら、振り向きざまに彼女はバッグで俺をぶった。
女性の平手打ち、いわゆるビンタは、愛情表現である。
何度もそういう形で俺の愛に応える女性を見てきた俺は、一発二発叩かれたからと言ってボーヤ達のように「キラワレた!拒絶された!」と思ったりはしない。
が、バッグによる攻撃には愛が無い。俺は一瞬傷ついた。
しかし、両手をしっかりと胸の前で組み、怯えた目で俺を見つめる女性の指を見たとき、俺の誤解は解けた。
彼女の指はゴテゴテの付け爪と指輪で非常に危険な状態になっていたのだ。
おそらく彼女は、その身に取り憑いた魔物に操られ俺に打ちかかりながらも、最後の最後に俺をその鋭い爪で傷つけるのを恐れて、バッグでの攻撃に切り替えたのだ。
俺は、魔物にその身を蝕まれながらも俺を気遣う彼女に感動した。
と、顎の先に何か濡れたような感触がある。
触ってみると、左頬がざっくりと切れ、血がたらたらと流れ出ている。
どうやらバッグの金具で切ったらしい。
まあいい、結果はどうあれ、彼女は俺を守ろうと努力したのだ。
彼女が悲しまぬよう、俺は傷など全く気にしていないという素振りで、顔の下半分を血に染めたままにっこりと笑った。
「ありがとう」
一歩踏み出すと、彼女は再び「ギャー!!!」と異様な声を発しながら、獣のように逃げ去った。
それは、人ならぬ何かが憑かねばかなわぬ素早さであった。
魔に憑かれ、あらがいつつも喰われ続ける人間は多い。
いつか君を助け出してみせる。
俺は、彼女の去った路地の奥を、いつまでもいつまでも見つめ続けた。
了
「で、何、皆どうやってCO2減らしてんの?」
「まー、基本木を植えたり、緑を増やして吸収させるってコトだね」
「バイオかぁー」
「…」
「でもそれじゃあ時間かかるだろ」
「まあ、そうなんだよね。結局そこが問題なわけよ」
「もっとこうさ、化学反応か何かで減らせばよくね?」
「化学反応?」
「ほら、酸素と水素で水みたいな」
「…学校で習ったの思い出してみろよ、何かと何かでCO2が発生する反応は幾つもあるけど、CO2と何かで別のものになるって反応あったか?」
「あるんじゃねえか?」
「ないよ」
「いや、絶対あるって、もっとよく考えろよ」
「何で俺が考えることになってんだよ。…ああ、まあ、一個だけあるか」
「ソレだよ」
「ソレってお前、
CO2+H2O→H2CO3
だよ?」
「ソレでいいじゃん、何がモンダイなの?」
「コレ、二酸化炭素が水に溶けて炭酸になるってコトだよ」
「ソレ!盲点!」
「じゃねえよ!要は炭酸飲料作るってだけだろうが。泡になって出て来たら元のCO2だよ」
「出る前に飲みゃあいいんだよ」
「飲んだって胃の中でCO2に戻ってゲップになって出てくるだけだろうが」
「ガマンしろよそんくらい!」
「…」
「…」
「まあ、いい」
「何だよ」
「感動した。柔軟な発想ってやっぱ、大切だなって思ったよ」
「おお、わかった?そういうことなんだよ」
「皆にお前のそのすごいCO2削減案教えてやるよ。」
「おう」
「『いっぱい炭酸飲料作って、飲んで、げっぷをガマンする』でいいんだよな?」
「やっぱ…言わんでいいわ」
「何かさ,CO2削減って世間で騒いでるみたいだけどさ」
「あー,言ってるねぇ,随分前からいってるよな」
「アレ,俺聞いた途端に閃いちゃったから」
「何がよ」
「解決策。要は何,柔軟な発想がこういう問題とか解決すんのよ,意外と」
「意外ではないけど。難しい問題のどこが難しいか分からないバカって、よくそういう事言うよね」
「まだ何も言ってねぇだろ」
「聞かなくても大体分かる気がするけど、ま、聞いてやるから言ってみ、どうすんの?CO2減らすのに」
「ほらもう、フッ、これだ」
「何だよ」
「そうやって、賢ぶってる奴がね、既にもう頭が固いんだよ」
「何がだよ」
「今、CO2減らすって言ったよね」
「おう」
「CO2って、要は二酸化炭素だろ?学校で習ったけど、もともと空気に含まれるものだろ?」
「ああ、そうだよ」
「だから、CO2が増えてるってのは、割合として増えるのが問題ってイミだろ?」
「うんうん、そうだ」
「だからさ、CO2を無理に減らすんじゃなくて、CO2を出したらその分他の成分も出せばいいんだよ」
「…あー」
「凄くない?この発想」
「まー、凄いちゃあ凄いけど。お前、CO2の空気の中での割合って何%位か知ってる?」
「ん?えー、50%くらい?」
「0.03%とか、そんなんよ」
「ふーん」
「ふーんって。てーことはよ?1gのCO2を薄めるのに、3000gの窒素や酸素が要るんだよ。大体どうやって窒素や酸素作り出すの?」
「そりゃ…電気分解かなんかで」
「電気使ったらむしろCO2増えるでしょ」
「あー、じゃあさ…逆にね、…CO2減らせばいいんじゃん?」
「それを言ってんだよね、皆、最初から」
「あーそう、もう既に言ってんの、けっこうアレだね、俺の考えるより事態は進んでたね…」
「…」
もっと書いて。
これだけの文章力にリスペクト
↓過去ネタ比較するとスランプ気味?
でもむちゃくちゃ期待してる!!!こんな賢い人はじめてみた!!!
「こんな賢い人はじめてみた!!!」
ミケ子は勢い込んで言った。
「裕太の書いた文章読んで思ったよ。すごい文章力じゃん」
「ミケ子ちゃん、あのね、『書店』っていう所に行ってみてごらん、もっともっと賢い人が書いた上手な文章が、いっぱいあるよ」
「本屋くらいミケ子もよく行くよ!ミケ子読書家なんだから。
そうじゃなくて、そういう真面目な賢いじゃなくて、馬鹿なこと書いてんだけど、カシコイって意味よ!」
「そういう意味でもね、ミケ子ちゃんのあまり行かない海外文学のコーナーとかSFのコーナーとか行くと、イタロ・カルヴィーノとかルーディ・ラッカーとか、飛び切りぶっ飛んでて賢い人がいっぱい居るよ」
「ウザいなぁ、ミケ子が直接アクセスできる身近な範囲で、ってことよ」
「それはミケ子ちゃんの交友関係に偏りがあるだけじゃないかなぁ。僕は今まで身近に僕よりサエてる人を何人も見てきたよ?」
「あのね、社交辞令。
『こんなの初めて』的なことを言うと、言われる方も気分良いし、言う方も初々しい感じで若く見られるし、両方にメリットあるでしょ?
いちいち形容詞やら副詞やらの本来の意味に立ち返って議論ふっかけて来ないでもらえる?頭悪いんじゃないの?」
「…ミケ子ちゃん?」
「ま、誉められてるんだから、殊勝に受け止めて励みにすればいいんじゃないの?」
「……はい。」
「なんか、CO2を炭酸水にして処理するって、マジでやってみるみたいじゃん」
「ああ、どっかの大学で、炭酸水を地下に押し込めて、鉱物と化学反応させて固定する処理の実験が行われたらしいね」
「やっと時代が俺に追いついてきたということか」
「お前のはそれ、飲むって話だったじゃん」
「あれ?飲むとかゲップとかって、お前が言ったんじゃなかったっけ?」
「………いや、お前が言ってるね」
「ログ読んでくるなよ。
まあ、あれはなんだ、いわば『地球が飲む』という発想も含めての『飲む』だから」
「なんだそれ。
でも、この技術もさあ、実用化されて大量に地殻内にCO2が蓄積されたところで、何かの拍子に高圧のガスと化して、一気に地表に噴出するという、大災害を巻き起こすかもしれないよな」
「いわば『地球のゲップ』、だな」
「ああ」
「愚かな人間の行う神をも恐れぬ所業に対する、大地の怒りのゲップだな」
「ああ」
「一度目は水、二度目は火かと思いきや、神はゲップを以て人類を滅ぼされた!」
「くどいって」
ある国には、精神に異常をきたしたものには死刑を執行しないものとする、という法律があった。
戦争や疫病が多く死が身近だった頃は問題が無かったが、平和な世の中になると、その国は他人なら殺せても自分の死には耐えられないという国民ばかりになった。
死刑になるほどの罪を犯したものには、必ず弁護士が精神鑑定を求め、死刑にの恐怖に怯える容疑者は、必ず精神のバランスを崩し“異常”という結果を得た。
数え切れない人数を殺した男が言う。
「死刑のプレッシャーで異常行動が出れば、精神鑑定で死刑を免れるんだろう?じゃあ、まず執行されることは無いな」
弁護士が焦って応えた。
「客観的に考えてはダメだ!現に今、君はちっとも狂って無い。このままじゃ本当に死刑だぞ!」
男はそれを聞くと、死の恐怖にすっかり精神を病んだ。
消しゴムをむさぼりながら男が弁護士に聞いた。
「俺は狂っているかな?」
「ああ、今は充分に狂ってる」
「良かった。もう死刑は無いな」
男は口の中の消しゴムをぺっぺっと吐き出した。
「しまった!これじゃあ死刑だ!」
弁護士が頭を抱える。
それを聞いた男は死の恐怖で…
ある国の裁判官が、
「お前には今後一週間のうちで、お前が予想しない日に死刑を執行する。
処刑は、その日の朝にお前に知らされる。
ただし、もしも前日中までにお前に死刑執行の日が予測できたなら、死刑を免除する」
と言う判決を下した。
独房に帰って男は考えた。
「今日は日曜だ。来週の日曜までが期限だが、奴らは処刑の日を日曜には設定できない。
何故なら、土曜の朝に処刑の知らせが来なければ、俺には確実に『処刑は明日です』と言えるからだ。
となると、土曜日も処刑の執行日には設定できない。何故なら、日曜日が使用できない以上土曜日が処刑に使える最後の日なので、金曜日に知らせが来なければ俺には確実に『処刑は明日です』と言えるからだ。
同じように、金曜に処刑するというのもマズいのが分かる。日曜も土曜も使えないので、奴らが設定できる最後の日が金曜なのだ。そうすると、俺には木曜の朝にそのことがわかっちまう…」
考え抜いた男は看守を呼びつけて言った。
「お前たちは俺を処刑できない。なんたって、予想されずに処刑できる日など、一週間に一日も無いのだから!」
看守は黙って去っていった。
ある朝、男に処刑が告げられた。
「そんなばかな!今日処刑するなら、俺には予測できるじゃないか!」
「だから、今日の執行はありえない、そう思うんだね?」
「そうだ」
「君は今日処刑が“無い”と思ってたわけだ。ならば問題なく執行させてもらおう」
ロックは,破壊と解放の音楽なんだけれども,"ロック"自身もジャンルとして固定すると,"ロックじゃなきゃダメ""ロックなら好き"等という,人の想いを縛る枠になる。
"やっぱスラッシュだよね"とか"やっぱポジパンだよね"とか言って,正しく分類できていること=理解していることと勘違いし,既存の文化領域に安住するチキン野郎共の頬っぺたを張りとばして,生の衝撃を与えるためには,奴等の得意技"ジャンル分け"を破らねばならない。
そのために,一部のロッカー達は常に新しい音楽の開拓,既存の音楽の戯画化,破壊に挑む。
マキシマムザ亮君は,極めて意識的にその作業に取り組んでいる。
彼の音楽が,様々なジャンルプロパー達から"偽者"呼ばわりされる程,引用と混合に満ちているのはそのためだ。
彼は,形式化され,無力化されない唯一のものはライブ会場での熱狂である,という地点から出発する。
従って彼の音楽は,歌詞の理解よりもノれること,現場がアガることを第一に作られている。
彼からのメッセージを,CDに聴き入って,静かな心で汲み取ろうとする試みは失敗に終わる。
彼の伝えたいのは,論理でも情感でもない。
聴くうちに躯の内が熱くなる,心がざわつく,無性に叫びだしたくなる,そうした心身の反応こそが,彼の音楽の意図するところなのだ。
そういった性格上,彼の音楽の間口は広く,昨日今日ロックを聴き始めた少年少女も,何も考えずにノれる。
カシコぶりたい自称音楽通は,それをもって"ホルモンはガキの聴く音楽だ"というわけだ。
しかし,刺激的なものを求める人間には,年齢,知的レベル,好きな音楽ジャンルを問わず彼の音楽は伝わる。
言葉には全て寿命があり,刺激的で力に満ちたスローガンも,役目を終えれば,形骸化し,ファッション化する。
マキシマムザ亮君は"言語システムに侵略されざるロック"という,とんでもない理想を目指しているのだ。
中学の頃、日本の歌謡曲に比べて英国の歌の歌詞が哲学的で難しい事を友達と話し合い、『英語は日本語より論理的表現に強い言語なのだろう』とか、『個々人が自分の倫理基準を確立するために一所懸命思索する民主主義の根付いた西欧と、長いものには巻かれて表面上皆と同じであれば心安らぐ人達が住む村社会文化の日本との違いだ』とか様々な説を並べていたのだが、そのどれもが間違いであることを今知った。
Mステでびよんせの新曲を聴いたのだ。
あの頃の英国の歌の歌詞が深かったのは、ポリスをはじめニューウェーヴの旗手たちが哲学的、内省的なテーマを好んだからだったのだ。
もちろん、当時もガキの僕らの知らないシーンで、日本にもシリアスな曲はあったのだろう。
びよんせもアメリカなら、TOOLもMATMOSもアメリカなのだ。
「作者は病気」シリーズに入れたいぐらい、最初からすべてが構想されている。
浦沢直樹さんの絵は、いかにも職人気質に上手くて安定していて、どちらかと言うと苦手だったのだが、この作品ではそのじっくりとした破綻のないスタイルがストーリーとマッチしていて非常に良かった。
一番根本的な疑問、「世界征服と言う幻想と多少のカリスマを持っている人物に牛耳られるほど、世界は狭くないだろう」という点に目をつぶれば、これは完璧な作品だ。
そして、そこはこの作品にとってさして重要な点ではないのだ。
この作品のテーマは、「人は皆、懐かしい思い出として消化され、不確かになる少年時代の上に生きている」ということ、そして「この世界は、子供が大きくなった大人達によって形作られている」ということだ。
作中に描かれる「権力を持ったコドモ」の牛耳る独裁国家は、決して架空のものではない。
日本の近所のあの国をはじめ、世界中にはそんな「トモダチの国」がたくさんある。
では、日本も将来そんな国になってしまう可能性はあるのかと言うと、それはかなり低い。
ケンヂ達がいるからだ。
遠藤賢司だけではない。大槻ケンヂやトモフスキ-や電気グルーヴやホルモンや、多くの声があり、それぞれが理想や絶望を説く。
ヒトラー始め、近代の独裁者はまず民衆の絶対的支持を必要とする。
「否定する声」や「絶望する声」「茶化す声」は、人々を視野狭窄から解放する。
「地獄への道は善意で舗装されている」が、多様性を持った文化は、人を追い込む正義のイデオロギーに負けぬ強靭さを持っている。
この作品において、主人公が独裁者に歌で戦いを挑むのは、不自然な設定ではないのだ。
作者が育った70年代以降の、サブカルチャーの熟成こそが日本の強みであり、財産だと言う、それは深く正しい洞察なのだ。
知られていない−いや、知ってる人もいるが余り語られないことなのだが、その『真空の恐怖』伝説は、某大国が宇宙開発競争に於いて他国の進出を遅らせようと広めたデマの一つなのである。
宇宙服も、あそこまで大袈裟な物にする必要は本当はないのである。
その証拠に、燃料の爆発や再突入の失敗での事故は多いが、宇宙で減圧によって飛行士が死んだ事故など一度も起こっていないではないか。
潜水艦の耐えねばならない数十気圧のほうが技術的には遥かに困難な挑戦なのだ。
実際には、酸素マスクさえ付けていれば、宇宙空間はTシャツ1枚で歩き回れる所だという事を、一般の人は知らない、いや、あえて知らぬままに置かれている。
情報操作というのは、恐ろしいものである。
え?
真空での水の沸点は0度、体温30度以上の人間の血は当然沸騰して水蒸気になるから、やはり人体は破裂するって?
あ、そう。
今日会社で宇宙旅行について話をしていると、H氏が「真空中に出たら破裂して死んじゃうんでしょう?」と言った。
聞けば、真空は圧力が非常に低いから、釣り上げられた深海魚の目玉や内臓が飛び出るのと同じ理屈で人の体も破裂する、という考えらしい。
真空の恐怖神話は根深い。
日本では昔「真空跳び膝蹴り」等と言う必殺技を持つキックボクサーがいた。
空中での技には『真空』という言葉を冠するのだ。これはどうやら無重力と真空の混同が根底に有ったらしい。
また、真空にはカマイタチ現象といって皮膚や肉を鋭く切り裂く効果があるというのも日本の漫画に根強い俗説で、赤胴鈴の助以来頻繁に使われる。が、明らかな「カマイタチ現象」の被害をニュースで聞いたためしがない。
深海魚の住むような、例えば水深500mの深さなら水圧は51気圧で、水面との気圧差50気圧もあれば内臓もはみ出ようが、地上と真空の差はたかが1気圧である。水母でもない限り破裂などしない。
今時、安物の時計でも10気圧防水を謳ってるものが多いのに、時計も壊れないたった1気圧の差を、なぜそこまで恐れるのか?
誰もが学校で「空気は酸素分子と窒素分子でできていて、その隙間は真空である」と習うのに、なぜ常に身近にあるその真空を、あたかも宇宙空間に特有のものであるかのように考え怯えるのか?
あなたの身近の三角形のものを持ってきてください。
・小さな三角定規を持ってきたあなた、あなたはまじめな中学生です。勉強がんばりましょう。
・大き目の三角定規を持ってきたあなた。そろそろマンガ家の夢は諦めたら?
・金属製の三角定規を持ってきたあなた。今時手書きで図面引いてるようじゃ、時代に置いてかれますよ?
・木製の大きな三角定規を持ってきたあなた。それ、持って帰ってきちゃ駄目でしょう、職員室に戻してきなさい。
・きつねうどんのアゲを持ってきたあなた。関西人?
・何も見当たらないあなた。…あの三角定規や分度器、いつ捨てちゃったんでしょうねぇ…
キャシャーンsinsというアニメが始まった。
キャラデザ・作画監督があの馬越嘉彦ということもあり、切れ味のいい“ミエ”に期待した。
ここで言う“ミエ”ってのは、怒りを湛えた主人公が夕映えを背に逆光でゆらり、と立ち上がるようなシーンのことね。
キャシャーンのような圧倒的な強さが前提のキャラは、そこが売りだから。
何らかの理由で戦うことを封じられた主人公が、不条理に耐えに耐えた末、幾万の軍勢を相手に大虐殺としか言いようのない凄惨な反撃を加える。
暴力が爆発する寸前の、一瞬の静寂。緊張。
で、sinsを見た結果…
舞台は「人間がロボットに支配されて数世紀後の未来」。キャシャーンは過去にブライキング・ボスの刺客としてルナを殺しており、その事が何らかの引き金となり、それ以来世界中のロボットが「滅び」と呼ばれる死病に蝕まれている。全ての記憶を失ったキャシャーンが、自らの犯したルナ殺害の謎と、世界に広まる「滅び」の謎に挑む。
と言った筋立てなのであるが…
元祖キャシャーンに比べると、象徴的、幻想的で捉え所のない話。
殉教者の如き使命感の塊であった元祖の主人公に比べて、今回のキャシャーンは脆く、危い。
ただただ、彼を喰らえば永遠の生命を得られると言う噂を信じて襲い来るロボット達を相手に、不本意且つ不毛な闘いを繰り返しつつ、頼り無げに世界を彷徨う…。
しかし、この暗さは確かにキャシャーンだ。
前作の暗鬱な雰囲気を子供心に刻んだ年代には、確かに響く演出なのだ。
フェイスシールドが音を立てて閉じ、キャシャーンの目が青白く輝くと、激しくも美しい殺戮が始まる。
南斗水鳥拳にも、エアマスターにも影響を与えた華麗な飛翔はそのままに、鋼の機体同士が激突する時の重く硬い響きが鮮烈だ。
勝利の爽快感があるわけではない。暗く重い世界の中で、ただ戦闘シーンが妖しく燦めくのだ。
「C君って、何の感想聞いても『僕はあっちの方がいいと思うな』的な上から論評で、じゃあ自分の好きなモノのことはどう語るのかと思えば、『まあ、ソレもそんなに好きじゃないし』とはぐらかす。何なの?あれは」
「C君か…。
君は、彼が自意識過剰で、何に関しても不用意に好意的に語って『そんなの好きなの?幼稚だなぁ』と誰かに言われるのを警戒して超然とした態度を装っているとでも思っているのだろうが…」
「そんなにややこしくは考えてなかったけど」
「それは、間違いだ!」
「そ、そうなの?」
「そして、京都やら下北沢やらに多そうな『中学までは神童と言われていたけど、高校で自分の才能にうっすらと疑問を感じ、何とか滑り込んだ国立大ではすっかり落ちこぼれたがその現実を認められず、俺は作家(脚本家、漫画家等も有り)志望だから、あえてドロップアウトしたんだ、と周りには吹きつつ何もせずに日々を過ごし、クリエーター全般に対する謂れの無い嫉妬心から何の作品に対してもクズ扱いするようになってしまった人間のクズ』とも違うんだ」
「ああ、そう」
「彼はただ、子供の頃不用意に『岩崎宏美って美人だよね』と言ってクラスでいじめに逢ったことがあったんだ」
「えー、そうなんだー、かわいそうに…でも、岩崎宏美は確かにマズイよね〜」
「マ、マジで?
…とりあえずそれ以来、彼は作家やアーチストを素直に誉めることが出来なくなってしまった、と…」
犬を殺された、あるいは犬の遺体を処分された、ということが彼を著しく傷つけたのではない。
そうであれば、そのときに彼は激しい行動に出ていたであろう。
現在の不遇の中で、彼は人生を省みて、どこで自分の人生が袋小路にはまり込んだのかと考えた。
何が自分の幸せを奪ったのかと考えた。
具体的に彼の行動に結びついているものは、全て見過ごされた。
彼が純粋に犠牲者であるような事、誰か文句無く責めを負うべき対象を、探した。
彼の充実した人生を奪った不条理な暴力を、探した。
見つかったのは、子供の頃失った犬のことだけだった。
彼の人生に対する復讐のテーマは、そこに焦点を結んだ。
「自己責任」という言葉で格差社会を容認した小泉政策も悪いが、ぼんやりしてたら一番キツイ処に追い遣られるというのも世界の真実だ。
人間は努力しているが、怪我をして狩が出来なくなった個体は死ぬのが地球の基本なのだ。
そういう覚悟は持たねばならない。
僕もいずれ路頭に迷い、飢え、病み、死ぬだろう。
誰かが救いの手を伸ばしてくれれば有難いが、それが当然なんじゃない。
「生存権」は先人の命を懸けた闘いを経て僕等の権利とされているが、僕はそれを獲得するために何の犠牲も払ってはいないのだから。
犬を手元に置きたければ闘えばいいのだ。
闘って負けたのは自分が弱いからだ。
一つ一つの勝ち負けをはっきりさせていかないと、自分の今の場所に、納得がいかないだろう?
犬を殺された、遺体を処分された。幼い子供に何処まで抵抗出来るか?
その子の個性による。
何はともあれ勝った負けたで人生が決まってしまうほど人生って奴は、小さいとは思いたくも無い。
ムツゴロウだって、モンテスキューだって、本田宗一郎だって、社会から認められ勲章を授与された人間だって邪心は、何処かにある。
それを人間って奴は、理性でカバー出来るような仕組みになってるわけで、兎に角言ってる意味を分かりやすく書いてくれって事だ。非常に分かり難い。
レスありがとうございます。
分かりにくいと言うことで、要点を詳述します。
彼は自分の覚悟不足な生き方のせいで人生の袋小路に追い詰められた。
追い詰められて、責任を転嫁する相手を探して、34年前の少年の自分を傷つけた厚生労働省というターゲットを見つけた。
少年の頃の心の傷と言うのは、誰しも多かれ少なかれ持っているだろうが、人生に窮した時にそれを掘り起こして利用するようなことになるのは、その時その時に心の中で決着がつくまで足掻かなかったからではないかと、私は考えた。
勝つことが必要なのではない。
邪心無い心なんて必要ない。(というか、何が「邪」かは、それこそ人それぞれなので、ここでは論じない)
「貧すれば鈍す」で、惨めな暮らしの中で自分を律する理性が緩むときに、「僕は本当は出来たはずなんだ。こうなったのは誰かのせいだ」と言う発想に迷い込まないように、様々な困難に対したときに逃げずに立ち向かうことが必要だと言いたいのだ。
それは、何か行動を起こすことに限らない。
何もせずにいて、「僕は何もせずに屈した」と思い知ることも含めてタチムカウなのだ。
例えば、小説の新人賞に応募して、落選すれば自分の力が分かって人生の次のステップに進めるけど、「応募すれば入選するけど、僕は商業的成功が目的じゃないから」なんて言って逃げてると、いつまでも後悔や迷いや恨みから逃れられない。そういうことなのだ。
勝ち負けをはっきり噛み締めて、前を向いた人生を生きよう、と言うことだ。
私が「犬」を書いたのは、このところ連続する“拡大自殺”(人生に絶望した人間が、無関係な人々を巻き込んで自殺しようとする行為)に共通する生き方があるのではないかと言う、現在の私の興味からです。
不景気になって、失業者や不安定雇用形態の人が増えると、自尊心が高い割りに社会への適応性が低い人の中には、自分を受け入れない「社会」に対して恨みを抱く者が出てきます。
もちろん、そんな孤立感をバネに専門分野の勉強をしたり、何かの才能を磨いたりして、社交性に代わる武器を手に入れる人も多いのです。
が、絶望の果てに自分を葬った「社会」に対して復讐を果たしてから死のう、と考える者が、たまに、現れます。
で、「社会」の代表者として、それぞれまた別のストーリーを生きてる無関係な「個人」が殺されるのです。
今回の事件は、明確なターゲットがあったと言う点で、拡大自殺と言われるアキバや土浦の事件とは違うように見えます。
しかし、そのターゲットの選定基準が「自分の人生を台無しにした勢力の代表者」であることから、これも一種の拡大自殺と言えるのではないか、と私は考えました。
私は、森山直太郎が言うように、「生きているのが辛いなら、いっそ静かに死ぬがいい」と思う者です(世界を破壊しようと試みるよりは、と言うことですが)。
彼のような、主観的な恨みに満たされた人生に陥らぬようにはどうすべきか、と考えて、「犬」を書きました。
文にも書きましたが、明日は我が身です。
絶望の中で死を選ぶ時には、せめて恨み言の出ぬように、力を出し切って微笑みながら腹を切りたい、と思います。
何真面目話?
杓子面白賢話以外不要!
赤犬食話等
犬話最高面白話求!
自尊心が高いという表現はおかしい。
それに社会への適応性が低い中に入れないってのは、自尊心ではなく、単なるつまらないプライドだ。
堅い堅いって柔らかい方が素敵だと私は思う。以上
ある日、そのペロを連れて一人で山菜取りに出かけたワシは、山で道に迷うてしまった。
日頃入り慣れた山でなんとも不思議なことじゃが、その日は森の深い方深い方へと迷い込んでしまった。
その夜を森で過ごしたワシ等じゃったが、次の日も、また次の日も捜索は来ず、終いにワシは沢で足を折って歩けなくなってしまった。
それからまた何日か経ち、とにかく空腹だったワシは、ペロに『お腹空いたよ。お腹空いたよ』とうわ言のように話しかけていた。
するとペロが、いきなり自分の後足に噛み付いて、肉を一塊喰いちぎったのじゃ。
ペロは、血まみれ、毛まみれのその塊をワシの前にポトリ、と置いた。
喰え、と言うんじゃ。
喰えんかった。
ワシは、血まみれで震えているペロの体を抱いて、いつまでもいつまでも泣き続けた。
朝になると、ペロは息絶えておった。
で?その後どうなったかじゃと?
ワシは助かったよ、5日後に救助されてな。
その時、ワシのそばには、ペロの毛皮と骨だけが転がっていた。
美味かったんじゃ。
生で、何の味付けも無く、最後には腐りかけておったが、美味かった。
犬種とか、肉質とか、そう言う事じゃないんじゃ。
愛情の絆の味じゃったんじゃ。
ワシはずっと、泣きながら喰っとったよ。
ん?なぜそんな話をするかだって?
そうじゃなあ、ワシは最近、もう一度だけ、あの天にも昇るように美味い肉を味わってみたくなってきたんじゃ。
犬のお前にこんな話をしても、分かるわけもないがなぁ…
どんな犬が一番美味いか、だって?
世間じゃあ、やれ赤犬が美味いだの、チャウチャウが良いだのと言っておるがの。
ワシが人生で一番美味いと思ったのは、韓国でも中国でもない。ここ、日本で喰った雑種の犬じゃったわい。
子供の頃、ワシの家では、ペロという名の雑種の犬を飼っておった。
なつっこい犬での、年中ワシと一緒にいた。まあ、ペットというより兄弟のような関係じゃったわい。
lレミタソ:あのねぇ、なんか、いろいろ説教垂れてくれてるけど、アンタにアタシの何が分かるって言うの?
琉浪暇人:色々分かってるよ。○○出版に勤めてることとか、ローソンの大盛エスカルゴ弁当が好きなこととか。
琉浪暇人:あれ?引いてる?
琉浪暇人:お〜い、落ちた?
lレミタソ:マジ訴えるよ、いい加減にしてよね
lレミタソさんが退出されました。
琉浪暇人:あれ、落ちちゃった。
琉浪暇人:でも、どうせ見てるんでしょ?ログ
琉浪暇人:どんなにウザいのに絡まれても、落ちたら安全、って思ってるんでしょう?
琉浪暇人:しょせん携帯切ったら無関係、だもんねー
琉浪暇人:……
琉浪暇人:そうかな?
琉浪暇人:後ろ、見てごらん
彼女は今もチャットに来ている。
誰も不思議には思わない。
携帯の機種も昔と同じだし、しゃべり方もいつもの彼女だ。
だが、俺だけが知ってることがある。
あの日、手を振った俺の姿を何と見間違えたのか、彼女は取り乱して走り出した。
前も見ずに車道へ。
一瞬、彼女の姿が消えた。
走ってきたトラックに跳ね飛ばされ、糸の切れた人形のように、はるか向こうに投げ出された。
思いをこの世に残した魂は、様々な形で我々の前に現れる。
今夜もlレミタソはチャットルームに現れる。
その真の姿を知るのはただ、封霊探偵という宿業を背負った俺一人なのだ。
その日のうちに、俺はGoogle Mapを駆使して、彼女の住所を十数か所の候補地にまで絞り込んだ。
それから2ヶ月、俺は常にチャットに網を張って彼女を追跡し、時に彼女の友達に近づき、時に知り合いに成りすまし、あらゆる情報を集めた。
世を忍ぶ仮の仕事も辞めてまで俺は調査に没頭し、遂にある日、俺は彼女の正体をつきとめた。
それまでに俺は、女友達との会話から、彼女が実はOLである事と、大まかな会社の所在地はつかんでいた。
その日も、彼女の勤務先があると思しき辺りをぶらぶらしていると、彼女がチャットサイトにログインしているのが見えた。
覗いてみると、最近特に仲のいい女友達に「今日はお昼を公園で食べてマース」と言っている。
俺は周辺の公園を探索した。
二つ目の公園で携帯をいじりながらサンドイッチを食べているOLを発見した。
見る限り、そのOLが携帯に何か打ち込むのと、チャットでlレミタソが発言をするタイミングは一致しているようだった。
突然、一匹のずうずうしい鳩がパンくずを食べようと、いきなり彼女の膝に乗った。
彼女は驚いて声を上げた。
直後、lレミタソがチャットで『びっくりした〜。今いきなりハトに襲われたよwwww』と発言した。
「見つけた」
俺は確信した。
チャットの付き合いは所詮仮想世界のもので、実際の処話をしている相手が本人の主張する通りの年齢、体重、容姿…性別だと言う保障は何処にも無い。
…素人が相手の場合は。
しかし、俺は内閣調査室から委託された特殊調査員、いわば情報のプロだ。
当然、チャットをする相手のことも徹底的に調査する。
その女は、ある日俺がいつものように自部屋で哲学的かつ詩的な独り言をしていると、『lレミタソ』と言うハンネで「はじめまして〜」と入ってきた。
俺が「よぅ!ネカマ乙」と挨拶をすると、「lレミタソネカマじゃないもん、ピチピチの17才女子高生だもん」と言ってきた。
勿論俺はそれを鵜呑みにしたわけじゃない。
それ以前に、チャットの相手が17才女子高生だったとしても、何ら特別な感情を抱く訳でもない。
俺は普通に「lレミタソちゃんて、誰似?どこ住み?どこ学?」と、相手に興味のある素振りを一種のサービスとして演じ、彼女も「おじさんがっつき過ぎ、ちょいキモイよ」などとふざけてそれに応じていた。
中々個人情報のヒントを明かさぬ彼女に対し、俺は「あ〜、こういう知的な会話はギャル脳には難解すぎるか。コムスメは本も読んだこと無いんだろう?」などと挑発し相手をムキにさせると言う、高度な会話継続術を使った。
2時間後、彼女が「あ〜、もうどうでもイイわ。自分マジうざい」と捨て台詞を残して落ちたときには、彼女の家の周囲にファミマ一軒とローソンが二軒あること、最寄の駅は地下鉄であること、高校入学時の偏差値が53だったこと等が分かっていた。
第一章 アキラ爆誕!
その日、俺は会社を辞めた。
理由は単純だ。
駅で拾った『パチスロセブン』という雑誌を読んで、スロットというものをやってみたくなったためだ。
友人は止めた。
「じゃあ、今晩でも一緒にパチスロ行こうよ。会社辞めるなんて何馬鹿なこと言ってるんだ」
しかし俺の決意は揺るがなかった。
違うのだ。
会社帰りに軽く小遣いで打つ。安全で常識的な小市民の娯楽。
ちょっとしたストレス解消、度を越さないギャンブル。
それが幻想なのだ。
この先進国日本の、大通りに面して昼日中から大きな看板掲げて営業していれば、間違っても人が破滅するだの殺されるだのするようないかがわしい店ではあり得ないだろうという考え、その考えこそが身を滅ぼすのだ。
金の取り合いをしている以上、そこは紛れも無い鉄火場。
軽い気持ちで足を踏み入れた奴は、身ぐるみ剥がれ餓えた狼どもの餌になるだけなのだ。
俺は狼になりたかった。
ただ肉として狼の餌場に赴く愚かな羊にはなりたくなかった。
では、どうやって狼になるか。
捨てるのだ。安住の地を。貯えを。他の餌場を。
俺はその日からスロッターになった。
ギャンブルで生きる他、道を持たないプロスロッターに。
会社を辞めたその足で駅前のパチスロ屋に入った。
うわっ、うるせー、何この騒音。タバコくせー、喫煙ゾーン無いの?これスロットに潜む魔物に喰い殺される前に肺癌で死ぬって。うわー、悪そうな若造ばっか。なんか睨んでるし。
なんか、考えてたのと違ったので、俺は家に帰った。
日本橋の裏店、砥師の左平次は、元は武士との噂もある無口な五十がらみの男。
仕事柄荒れた手先からか、その狷介な人柄からか、ついた渾名が「ささくれ左平次」。
尤もこれは表向きで、長屋の連中がそう呼んだのは、酒浸りな左平次の口癖「酒(ささ)くれ、酒くれ」を皮肉ってのことだという。
折からの不況で、江戸の町は不穏な空気に満ちていた。
どの藩も財政が悪化すれば、まず考えるのがリストラ。
以前なら数十日の閉門で済んだような事でも、お役御免、家禄減封、お家取り潰しなどの処分を乱発した。
結果江戸には食い扶持を求める浪人が溢れ、喧嘩辻斬りの刃傷沙汰が横行した。
武士ばかりではない、ここ数年は農家の潰れも多く、石川島の人足寄場ももはや一杯だと言う。
不思議なことは、食うに困ったなら食う為だけに罪を犯せばよいのに、男は、特に元藩士旗本の類は、不遇をかこつ身の上になると、辻斬り勾引かしの類の一文にもならぬ犯罪に走った。
左平次はその日、得意先に仕上げた刀を届けた帰り、裏店の木戸をくぐる時、ふと目をやった向こうの四つ辻に、すっと身を隠す人影を見た気がした。
腹の辺りから二本の柄が突き出ていた。武士である。
左平次は、入れ違いに駆け出て行った廻り髪結いおかつの娘、おせんに声をかけた。
「近頃物騒だ、遅くなるんじゃあねえぞ」
日頃口をきかない左平次に声をかけられ驚いたのか、おせんは目をまん丸にしただけで、何も言わずに駆け去って行った。
左平次は、ふん、と鼻を鳴らすと、家に向かった。
内に入るとまず木っ端を持って隣の戸を叩く。
隣の夫婦者に火を借りるのだ。
木っ端に火を貰うと手で囲うようにして内に戻り、火皿ばかりの行灯に移す。
面倒なのでかまどに火を入れたりはしない。
夜は冷や飯に湯冷ましの水をかけ、香の物と食べる。
それでも酒があれば充分な食事だった。
左平次はもう十年近くもこういう暮らしをしていた。
今夜は殊に冷え込んだ。
左平次は飯の途中で奥の部屋に掻巻を取りにいった。
せめて湯漬けにすればよかった、と考える。
火鉢に火を入れるとなると、炭代もかかる。費えな季節になったなあ、と溜息がでた。
酒で体が温もってるうちに、と、さっさと床に入る。
隣から楽しげな話し声が聞こえる。今日はよく眠れそうだ、と思った。
風呂に入らず、着替えもせずに、ただ、こればっかりは抜けぬ癖で、枕元に脇差を横たえた。
左平次は、先刻の不審な人影のことなどすっかり忘れて眠りに落ちた。
四つの鐘を聞いた頃から、表が騒がしくなった。
早々に寝入った左平次も、溝板を踏む音に目が覚めた。
腰高障子に灯りと人影がしきりに交錯する。
左平次は表の戸を開けて顔を覗かせた。
長屋の連中が、提灯を手に手に不安そうな顔で行き来している。
「何だ、何があったんだい?」
又隣の大工、繁蔵を見つけて問いかける。
「おかつさん所のおせんちゃんが帰らねえんだ」
「何と」
左平次はすぐに夕刻の不審な人影のことを思い出した。
「勾引かしかも知れねえってんで、長屋の若い者を集めて探しに行こうって話になってんだ」
今、木戸番に掛け合って、番所送りの段取りをしてもらってるのだという。
「何だか皆起きだしてきちまったが、そう大人数で夜中にうろつくわけにもいかねえ。まあ、左平次さんは内で待っててくんな」
そう言うと、繁蔵は木戸の方に去って行った。
左平次は暗澹たる気持ちに襲われた。
彼には娘が帰らぬのが偶然とは思えなかった。
あの侍は、やはり善からぬ目的をもって町角に身を潜ませていたのだ。
左平次は、あの時直感的に何かを感じていながら、なんら娘を救う行動を起こさなかった自らの不覚を悔いた。
おせんが、あの時あの武士に目を付けらて攫われたのなら、今頃はもう無事ではあるまい。
あの侍にもっと睨みを効かせて追い払うなり、おせんを一旦帰させるなりするべきだった。
左平次は戸も閉めずに框に腰掛け、首を項垂れた。
目明しの金蔵という者がいる。
女房に楊枝屋をやらせていて、自分は揉め事に顔をつっこんでは名を売るという、いわゆる侠客のようなことしている。
そして時々は、八丁堀の旦那、定廻り同心狭山市右衛門の手先の一人として働いた。
いわゆる十手もちの典型だが、その中ではましな部類だった。
世話好きで親分肌、色んな所に顔を出しては恩を売りたがるが、弱っている者を鴨にすることはない。
左平次もここに移り住むに当たっては色々と世話になっている。
その金蔵の使いの者が、左平次の内の戸をたたいた。
「親分が呼んでるんで、とにかく来てくだせえ」
息を切らした若造は、それっきり何も言わない。
仕方なく左平次は若者について表に出た。
若者は早足で大川の方に向かってずんずん歩く。左平次はいやな予感がした。
火避け地を過ぎて両国橋の袂、千本杭の辺りへ向かう。何やら人だかりが見える。
中に、黒の長羽織に黒鞘を落とし差し、着流し姿の背の高い侍の姿があった。
定廻りだ。
左平次は、悪い予感が当たったことを知った。
人垣の中から、縞の袷に襷掛け、尻端折りに軽衫といういかにもな風体の男が歩み出た。
金蔵だ。
金蔵は左平次を人の輪の中心に招き入れる。
そこには筵が一つ敷いてあった。
小さな丘が真ん中にある。
「悪いな、わざわざ呼びたてちまって。すまねえが、ちょっと、見てみて貰いてえものがあるんだ」
金蔵が筵を指し示す。
「もう察してると思うが…仏が上がった。斬られてる」
おせんが消えて今日で三日になる。
左平次の脳裏には最後に見た娘の怪訝そうな表情が浮かぶ。
金蔵がそれ以上何も言わないので、左平次は筵に近づいた。
定廻りが声をかける。
「金蔵、この者は?」
「へえ、この男は左平次と申しまして、元はさる御家中の研ぎ師を勤めていた職人でございます。
試しの場へもよく通ったようで、据え物の斬り口を見れば、刀の切れ味は言うに及ばず、斬り手の技量や体格までも大概は分かっちまうという名人で」
「ほう」
「なにせ、この仏の有様でござんしょう?この男に見せりゃあ、何か分かるんじゃあねえかと思いまして」
「うむ、そうだな」
八丁堀はさほど関心の無い様子で相槌を打った。
「名人、か…。おやじ、まだ、研ぎはしておるかぃ?」
やや伝法な口調は八丁堀特有のものだが、この侍は無理をしてその口調を真似ているように思えた。
八丁堀じゃねえ、“八丁振り”だな、と左平次は心の中で独り言ちた。
「へえ、お蔭様で」
「今度、俺の差料も見てもらおうかな」
「へえ、それは、有難うございます」
いかにも一応といった感じのそんな会話を左平次と交わし、同心は金蔵に頷きかけた。
それを受けて金蔵が手招きする。
左平次はしゃがみ込むと、一息大きく息を吸い、筵に向かって手を合わせた。
筵の端をめくる。
ぐっ、と喉が詰まった。
そこには、蝋で作ったように真っ白になったおせんの顔があった。
両の目は誰かが閉じてやったのだろう、一見するとただ眠っているように見える。
さらに筵をめくると、まだ幼い、痩せた体躯が現れた。
着物は着けていない。
しかし、視線を下ろしていくと、その白い肌は突然途切れた。
臍の少し上辺りで、娘の細い体は両断されているのだ。
その先には、雑にまとめられた臓物が土に塗れている。
不思議なことに、おせんの顔を見たときは息を詰まらせていた左平次が、その光景には動揺を見せなかった。
むしろ、かえって落ち着いた態度で丹念に傷を観察し始めた。
暫く水に漬かっていたにも拘らず、川水の冷たくなる時期だったのが幸いしたか、遺体には腐敗の兆候が見られなかった。
左平次は、斬り口の周辺の皮膚を、時に指で触れるなどしつつ、念入りに調べていた。
「返してようございますか?」
左平次が聞いた。
遺体をうつ伏せに裏返してよいか、と尋ねたのだ。
金蔵が同心に目をやると、同心は無言で頷いた。
「構わねえ、好きなようにしな」
左平次はもう一度娘に手を合わすと、肩の辺りに手をかけ、遺体を返した。
「何か、分かるかい?」
しばらく断たれた背骨の表面を指でなぞった後、じっと、考え込むように動きを止めた左平次に、金蔵が聞いた。
「へえ、…」
急に疲れたようにその場に胡坐をかいて座り込んで、左平次が語り始めた。
「傷は、左背中から、右脇に抜けたものです。
血がきれいに抜けて真っ白になってる処から見て、生きているうちに一刀の下に斬り捨てられたに違いありますまい。
刃がきれいに引かれて、肉が千切られずに斬れている事から、下手人は真剣の扱いに慣れた、おそらく抜刀術、居合いの類を学んだ者と思えます。
だが、臓物や筋の引き攣れ具合から見て電光石火の素早い太刀筋と言うのとは違う。
こういう、」
と、左平次は右手の肘から手首を鞭のようにしならせて振って見せ、
「軽く素早い振りではなく、こう」
言いながら今度は右手を棒のように伸ばして上下に大きく振り、
「大きく重い斬撃でありましょう」
と言った。
「おそらく賊は武士。きちんと斬り方を習った者。大柄で特に手足の骨の太い体格。さらに…」
左平次の目が、その者を遠くに見出したように眇められた。
「この者は生き物を斬り慣れている。
逆袈裟に一刀…。おそらく、これまでにも犬猫の類を幾度も斬っておる筈…。
犬や猫を斬っていると噂のあるようなお侍が居ればそれが怪しい」
金蔵が、したり顔で八丁堀を見上げたが、同心の反応は薄かった。
「左平次とやら、その方の見立ては見事だが…、大坂なんどではそれで下手人も絞り込めようが、この大江戸は武家の国。
大柄で居合いを習っている侍も無数に居れば、その内で犬猫の試し斬りに及ぶ者も星の数ほど居る。
それだけでは、誰が怪しいとも言えぬぞ」
「しかし、狭山様、まずは近辺の犬猫が斬り殺されたと言う噂を訊き回り、その上で体格や経歴から絞り込めば…」
金蔵が食い下がったが、同心が諭す。
「よいか、これを致したのが武家、しかもどこぞの国侍だったとしたら、事は町方の力の及ぶ処ではないのだ。
素性の知れぬ浪人者ならいざ知らず、道場に通う程の武家に嫌疑をかけるということがどういうことか、わきまえねばならぬぞ」
町人と違い、武家を番所にしょっ引いて責める訳にはいかない。
乱心の現場を押さえる以外に、れっきとした武士を捕らえる法は無いのだ。
何をした訳でもないのに、一分貰った。
挨拶をして帰る途中に、金蔵が追いついてきた。
「蕎麦でも喰わねえか」
もちろんこういう場合は屋台ではない。見世を構えた蕎麦屋への誘いである。
少し歩いて「一心庵」という新道に面した小ぶりな蕎麦屋に入った。
金蔵は親父に声をかけると、さっさと奥の小座敷に揚る。
天ぬきと酒を注文し、先に酒が出ると早速左平次と自分のぐい呑みに注いだ。
「今日はわざわざ出てきてもらって済まなかったな」
一口呑むなり金蔵が言った。
同じ長屋の娘の無残な屍体を見せたことを詫びたのか、上役の狭山市右衛門の素っ気無いあしらいを詫びたのか分からない。
「いえ、わっちは、何とも…」
左平次も酒に口をつけた。
日頃の安酒ではない、下りものの、旨い酒だった。
「市右衛門様はあんたの昔を知らねえから、きっと『素っ町人が賢しげに剣術を語りおって』とか、機嫌を損ねちまったんじゃねえかな。
それと、まあ、下っ引き風情がはなから『武家が下手人』と決めて調べにかかると言うのも確かにおこがましい話でな」
それは左平次にも分かっていた。
国侍だろうと貧乏旗本だろうと、主持ちの侍をその主以外の者が裁くことは出来ない。
馬鹿な話だ、と左平次は思う。
結局、政道の裁き切れぬ遺恨を晴らすために、仇討ちなどという制度が連綿と続くことになる。
「だがな、左平次」
無口な左平次の性質を知っている金蔵が、返事が無いのに構わず再び口を切った。
「正直言っちまうとな、今度の調べは、俺はお上に任せる気はねぇんだ。
お前さんも知っての通り、辻斬りのほとんどは下手人があがらねぇ。殊に斬られたのが町人だと、犯人の目星がついていたってどうにもならねえ。たまに人斬りの噂が揉み消せねえほど大きくなった国侍が国に帰されるってのが関の山だ。
けど、俺も知ってる娘が斬られてそれじゃあ、納得いかねえじゃねぇか。
その気になりゃあ、どこの藩だろうとお目付け様に讒書するなりして、詰め腹の一つも切らせる手があるんじゃねえか、と思ってね」
金蔵の気持ちは痛いほどよく分かる。
言ってることも、あながち無理とは言えまい。
讒書が受け入れられて目付けによる調査が行われ、その上でその者の罪が露見すれば、他国者と謂えども罰を受けねばならない。
しかし、狭き門だ。
どこの藩にも面子というものがある。
たとえ以前より悪い噂の絶えぬような武士の事だったとしても、江戸の町人に指摘されて『それでは』と罰するような真似は出来ない。
狭山市右衛門のような同心が、武家を相手の調べに二の足を踏むのもその点なのだ。
幕府の役人が絡むとなれば、事は容易く国同士の政治問題に掏り替えられてしまう。下手をすれば飛ぶのは同心の首の方、となりかねない。
「どうだ、左平次。いや、田丸総兵衛殿、元お武家のあんたから見て、これは無理な考えだろうか?」
斬り口を見れば、武家の仕業と言うことは素人にでもすぐ分かる。
左平次の過去を知る金蔵が、この事件に彼を引き込んだ本当の意図はこの辺にあったのだ。
町方同心を当てにしない調べを行うとあれば、『元』が付くとはいえ、事の落とし所を知る武士の協力は不可欠。
金蔵は左平次に参謀としての協力を求めているのだ。
「無理だな」
祈るような思いを込めて正面から見据える金蔵の目をまっすぐ受け止めたまま、左平次が言い切った。
「下手人の処罰なぞまず無理な望みな上、下手に動けばお前さまの身も危ない」
金蔵が、視線を落とし、ふ、と息を吐いた。
「しかし」
と左平次が言を継ぐ。
「わしは親分さんを見直しました」
「なんだい」
左平次の真意が分からず、金蔵は聞き返す。
「なんというか…、金蔵さんは無理なことはしない人だと思ってました」
「なんだそりゃあ、誉めてんのか、貶してんのか…」
「誉めてるんでさぁ。
無理を無理と諦める生き方を『潔い』と言います。
武士はそれを何より大切にするんで、悪足掻きってもんができない。
それはそれでいいんですが、皆がそれじゃあ、進歩ってものがねえ」
「進歩、かい」
「そうでさあ。悪法も法と澄ましこんでちゃあ、いつまで経っても道理が通らねえ」
左平次は、ぐい呑みの酒を一息に飲み下した。
「今じゃああっしも素町人。親分の悪足掻きに、一丁付き合わせていただきましょう」
辰吉丈一郎がタイでの再起戦を勝利で飾り、タイ国内ランキング1位に立った。
「麒麟も老いては駄馬に劣る」というが、駄馬と必死に競わねばならなくなった麒麟の姿は美しい。
私は、「老いた天才萌え」である。
かつての力を失った天才、主人公が足掻き、苦しむ姿そのものが神々しい。
若い頃は、そのずば抜けたセンスや身体能力に隠されて、見えてこなかった「天才」の裏側。
人並み外れた努力や、それを支える一種強迫観念にも近いそのスポーツへの愛着。
そういったものが、見えてくる。
彼らの、心の強さが見えてくる。
「天才」という形容に含まれる、才能にアグラをかき、スイスイと人生を渡って行くようなイメージが拭われ、彼らを常人と分かった強さが、恐怖心が、苦しみが露呈する。
それが心を打つ。
引き際の潔い天才も美しいし、その「美しい引き際」にもそれを決断させる途方も無い自分への厳しさがあっての事だとも思う。
が、その人生は完結している。
「ツン」のみである。
違うのだ。
人を(私を)感動させるのは、「ツンデレ」なのだ。
「俺は苦労なんかしていないぜ、天才だから」という顔で、努力丸出しの凡人共をなぎ倒していた男が、失い、それでも諦められず、歯をむき出し、汗まみれになって凡人と競う。
若い頃は「当然」と表情一つ変えなかった一つの勝利に、ガッツポーズで喜びを表す。
「好きだったんジャン」と思うのである。
「必死だったんジャン」と思うのである。
こんな萌えるツンデレが他にあるだろうか?
こんな、「くっそ、あんたすごいじゃねえか、俺もがんばるよ!」と思わせるツンデレが、他にあるだろうか?
ツンデレといえば釣り目でツインテールでスリム体型とか思ってるアナタ!
「元天才ツンデレ」に目覚めなさい!
二人はその後半刻ほど話をした。
今後の調べをどう行うかについて話しあったのだが、結局左平次はあの日目にした武家のことを金蔵に言わなかった。
ひとつには、下手人が主持ちという先入感を持たせて金蔵の調べを不自由にしたくなかったという事がある。
あの日遠目に見かけた男の姿から、左平次は恰幅と言うか、腰の据わりと言うか、どこか浪人ではない雰囲気を感じ取っていたからだ。
もうひとつは、万一の時にこの事件の始末を自らの手で着けられるように、金蔵よりも常に一歩先んじておきたいという思いが左平次にはあった。
万一の時と言うのは、あの侍が大身の旗本であったり、ややこしい藩の江戸詰めであったりした場合のことだ。
その時は、おかつさんにだけ下手人の名を告げて、けりは自分の手でつける、左平次はそういうつもりだった。
しかし勿論、全てを明るみに出し、長屋の皆にも正義が行われたことを知らせるのが一番なのには変わりがない。
「背骨の切り口に、ごく小さなものだが糸屑が挟まっていました。おそらくおせんは着物を着たまま斬られたんでしょう。
あの斬り方じゃあ周り中血の海になるのは分かり切ったことだし、おそらく殺しの行われたのは、屋外」
「あんな無残な遺体を、風呂敷に包んでぶらぶら持ち歩く訳にもいかねぇよなあ。となると、そこは大川の近くの、人目につかない場所」
「稲荷や荒れ寺、倉庫裏の桟橋…」
「片っ端から調べて、血の跡のあるところを見つける。
その後は、あの晩その辺りで侍と娘を見かけたという棒手振り、屋台を捜す、か」
「まあ、その辺りの呼吸は親分にお任せしやす」
翌日から三日ほどよく晴れた日が続いた。
おせんの腰から下は見つからなかったが、大工の繁蔵が張りぼて細工を工夫し、白無垢の上からなら生前と変わらぬ姿にしてくれた。
長屋の者からだけでなく、廻り髪結いであるおかつの得意先からも香典が集まり、それなりの葬礼を出すことができた。
おせんの母おかつは、弔問客の一人一人にねぎらいの言葉を掛け、終始気丈に振舞っていた。
おかつは深川芸者上がりだった。
もとは商家の娘だったと言うが、幼くして両親を亡くしたおかつは、深川の船宿に引き取られた。
船宿の女将は、幼い子供に愛情を抱かない人ではなかったが、無駄飯を食わせるものでもなかった。
おかつは、見世の手伝いをさせられる一方、三味線、小唄、手習いにも通わされた。
遊びたい盛りの子供にとっては、辛くても仕方ない暮らしだったが、おかつは何もかもを楽しんでいるように見えた。
習い事の中でも書画には才覚が有ったようで、師匠から女将に、内弟子にどうかと打診があったという。
しかしおかつは全てを一流の芸者になるための修行と捉えていたようで、他の将来があるなどと思いもかけぬようであった。
そして、それはどうやら立派な芸者になることが育ててくれた女将への唯一の恩返しだと考えていたためであるようだった。
実際おかつは、芸者“勝女”として見世に出るようになるや、すぐに売れっ妓とになった。
漢詩や古歌に通じ、打てば響く機知に富んだ彼女は、遊び慣れた“通人”達の評判になったのだ。
折りしも狂歌の流行る頃、おかつの作は度々四方赤良・朱楽菅江らの撰に入り、詠み人知らずあるいは“喜撰方子”の筆名で歌集に載った。
気風のよさでは勝っても、才気教養では吉原に一歩譲る感のあった深川芸者にあって、彼女は異色の存在であった。
幾人もの大店の主人や道楽旗本が大枚はたいて囲おうとしたが、彼女は誰にも靡かなかった。
いずれ余程の大身か、有名な通人に貰われるのだろう、いや、いい旦那を見つけて自分の見世を持つ玉だろう、と、勝手な噂をされていた彼女が突然見世を辞め、色町から姿を消したのは二十六の時だった。
相手は沖伯という駆け出しの貧乏絵師。
誰かの御供で二、三度遊びに来た程度の客だった。
彼女を知る者は誰もが驚き、結婚以来一切遊びの場へ顔を出さなくなった彼女の才を惜しんだ。
しかし彼女は、良人を支える女房に徹することにしたようで、幸せそうに苦しい家計のやりくりをし、掃除をし、飯を炊いた。
二人の間にはやがて娘が一人出来た。
不思議なことに、生真面目だがどこか迫力と言うか重みに欠ける作風だった沖伯の絵に、その頃から独特の深みが加わってきた。
人目を引くけれん味は無いがやさしく味わい深い沖伯の作品は、次第にその評価を高め、仕事も増え始めた。
そして、さる名刹の茶室の襖絵四面を描いて欲しいと言う仕事が来た。
一世一代の大仕事である。完成すれば、まさに沖伯の名を世間に知らしめる大作となるであろう。
沖伯は張り切った。
おかつも、やっと良人の才が世間に認められると喜んだ。
だがその年の冬、根を詰めすぎた沖伯は流行り病を貰い、襖絵の完成を見る事なくあっけなく死んだ。
おかつは一時正気を失い、沖伯が生きて隣に居るかのように一人で話しをしているかと思えば、数刻もじっと動かずに一点を見つめていたりした。
二歳になったばかりのおせんが泣いても、まるで気付かぬように放うったらかしにしていた。
四日目に、見かねた大家がおせんを里子に出す相談に訪れた。
「この度は、誠にとんでもない不仕合せな事だったなぁ」
大家が上がり框に腰を下ろして語りかけても、おかつは茶を出すでもない。
それどころか、大家の方を見ようともしない。
「お前さんも、大層辛いことだろうし、この先、女手一つで子供を食わせていくのも、随分と骨の折れることだろう」
おかつの状態は百も承知で、とりあえず娘を連れて行くのに母親に声の一つも掛けないでは、格好がつきかねると、それだけ考えて来た大家は、何を言っても暖簾に腕押しなのに委細構わず、自分の言いたいことだけを言い連ねる。
「幸いおせんちゃんはまだ二つ、私の顔の利く範囲でも、貰ってくれようという家がある。
どうだい、ひとまずここは私に任せて、おせんちゃんを里子に出しては?」
そう問いかけた時だった。
それまで部屋の暗い片隅に、焦点の定まらぬ視線を据えてぴくりとも動かなかったおかつの顔が、さっと大家に向けて振り向けられた。
「なんだって?」
目尻がきりりと吊り上がり、小さな口を一文字に結んだ、気風が自慢の深川芸者の貌がそこにあった。
「おせんを、よそにやる、だって?」
先刻までの、木偶のような、ただ生きているばかりの年増女の姿はどこにも無い。
大家は気圧され、
「いや、お、おかつさん、あたしは何も…」
と、口ごもる。
「あの子はあたしの、たった一人惚れ抜いた男の一粒種。女手一つと言ったって、こちとら憚りながら深川で人面獣心の狒々爺達と、子供の頃から渡り合った手練手管の手がありやす。娘の一人、育て兼ねる様な細腕じゃあござんせん」
啖呵を切られて、大家はすごすご、引き下がった。
おかつはその後、古くから知り合いの髪結いに弟子入りし、半年ほど修行した。
もともと深川に居た頃は、朋輩の髪をよく結ってやっていたのだが、御足を頂くなら素人の見よう見まねという訳にも行くまいと、改めて一から習ったのだ。
それからおかつは廻り髪結いを始めた。
はじめは昔の知り合いが、義理で声を掛けるといった風だったのだが、客の気性を見極めて一人一人に合った“張り”を表現する彼女の髪は、深川芸者の間で評判を呼んだ。
化粧風俗は常に遊里から発して町娘の好む所となる。
やがておかつは大店の奥方も得意先に持つ売れっ子となった。
が、ある程度の固定客が着くとおかつはそれ以上仕事を増やそうとはしなかった。
娘のおせんの世話を人任せにしたくなかったからである。
おせんは、母に似て美しい娘に育った。
母の職業柄か、こっそりと化粧をするのが好きな娘は、歳よりはませて見えた。
娘が美しく、また大人びて見えることについて、他人から『物騒な世の中だ、あんまり男の目を惹くような格好をさせとくのはどうかと思うよ』などと忠告されると、おかつは『あの娘はああ見えて家の仕事もよく手伝う良い子ですよ。あたしはね、女が男の気を惹いて悪いことなんざ無いと思ってるんです。悪い虫が付くも付かないも結局本人の心がけ次第でね。あたしはあの子をそのあたりしっかりした娘に育てたつもり…、いや、あの年頃のあたしより、あの子はよっぽどしっかり育ってますから』と、取り合わなかった。
「やあ、どうだい?チョコ貰ったりとかした?」
「ん?君ともあろうものが、そんな事を聞くのか。バレンタインデーなんて、所詮チョコレート会社の差し金で無理矢理盛り上げてるイベントだというのに」
「なんだいいきなり。まあ、それはそうなんだけど、何か不満でも?」
「いや、メーカーの金儲けに利用されて、バカみたいだと君は思わないのか」
「メーカーが金を儲けて、僕らは楽しみを手に入れる。資本主義ってそういうもんなんだがなぁ。メーカーの流れた金は、巡り巡っていつか僕らの元に戻ってくる。それが経済の活性化にも繋がるんだぜ?」
「いや、そうじゃなくて、元々聖バレンタインが恋人達の仲を取り持った聖人だった事とか、そういう由来も知らずにただ宣伝にノせられて盛り上がってる日本人の姿が、君の目には愚かしく映らないか?」
「ははは、そんな事を言ってる君のほうが愚かしく思えるよ。元々のキリスト教色の強い記念日のままだと、イスラム教の人なんかには楽しめないだろう?宗教的立脚点なんて忘れて、祭りだけが残るってのが、無宗教国家日本の良い所じゃないか」
「でも、僕は踊らされたくないな」
「じゃあ、踊らなければいい。宗教行事と違って、否定したって人間性を疑われるまでは行かないからね。僕には、君が単に人のすることの愚かしい点をあげつらってカシコぶってるだけに見えるよ」
「……それは違うな」
「そうかい?」
「僕は単に、チョコを貰えなかった劣等感から逃れようとしているだけなんだ」
「芸者上がりだか何だか知らないけど、娘にちゃらちゃら浮ついた格好をさせとくから、こういうことになるんだよ」
葬式帰りの人の群れと見て寄ってきたのか、への字の口なりに皺の刻まれた偏屈そうな老婆が、誰にともなく大声で言った。
「この婆ァ、どっから湧いてきやがった」
長屋の若い衆が聞き咎めて怒鳴りつけると、老婆は何やら口の中で呟きながら歩み去った。
「けっ、栄吉んとこのお種婆だ。歳食ってどんどん了見が捻じ曲がってきてやがる」
若い衆は老婆の歩み去った方へ砂を蹴り上げた。
左平次はおかつの方へ目をやった。
おかつは、何も聞こえていなかった様子で、しきりに慰めの声をかける客等の応対をしていた。
前に夫を亡くした時と比べると、今回はずっと落ち着いているように見える。
噂になるほどの事件であったために弔問客も多い、その応対で気が紛れるのか、かけられる励ましの言葉に慰められるのか、それとも、打ち続く不仕合せが彼女を鍛えたか、と、左平次はぼんやり考える。
と、おかつに挨拶を済ませた金蔵が、戸口に寄りかかって立つ左平次の方へやってきた。
「これは、親分」
左平次が頭を下げると、金蔵は右手を小さく上げて応えた。
「殺しの現場が判ったぜ」
金蔵は、小声で単刀直入に言った。
「へえ、どこで?」
「それがよ、どうやら稲荷の近くの芦原らしいんだ」
「ほう」
「ここのところ数日雨が降らなかったお陰なんだが、何も無い藪の真ん中に草を踏み分けた跡があって、そこが一面べっとり黒い血糊で固まってやがった。
俺ァ驚いたよ。お前さんの言うように下手人が主君持ちなら、もっと人目につかないところでやってると思ったからな」
それは左平次も同感だった。
いくら薄暗い頃だったと言え、川面を行き交う船からも、土手を歩く人からもいつ見られるとも分からない河原でそのような凶行に及ぶとは、あまりに投げやりすぎる。
「最近何かでしくじって碌を失った者かも知れませんな」
「うむ…。何にしろ、浪人者が相手なら、俺も狭山様も気が楽だ」
金蔵は、じゃあな、と手を振ると長屋を出て行った。
おかつは、翌日身を投げた。
屋形船の船頭が飛び込む音を聞いており、すぐに辺りが捜索されたが、おかつは一刻の後に変わり果てた姿で見つかった。
「死んで行く、死んで行く、死んで行く…」
自分を形成した様々な要素が、それ自体は失われないが、死んで行く。
僕は「グイン・サーガ」を読んではいなかった。
「100巻まで書くとか言ってるとんでもない作家がいるらしい」
という噂を聞き、サーガが早川文庫に巻を並べてゆくのを横目に、外国SFや「クラッシャー・ジョウ」を読んでいた。
「グイン・サーガのグインって、アーシュラ・K・ル・グインからとったのかなぁ」
とか思いつつ。
吾妻ひでお、バローズの火星シリーズ、高千穂遙、ゼラズニイの真世界シリーズ…
あの時代を構成していた人格が、死んでいく。
その現実は、否応なく自分もまたここから退場する時が近いのだと言うことを思い知らせる。
「俺は恐竜だ。誰かが俺の骨を掘っている」
クリムゾンのDinosaurが聞きたくなった。
刺激的な現代を生きていた。
何も確かなものが無い時代を生きていた。
つねに古いものを否定し、自分の可能性の無限や
未来の永遠を信じていた。
新しいことを学ぶのが
新しいことを始めるのが
楽しかった。
思いついたら、眠れなかった。
明日一日で、今日一日で何もかも変わった。
つねに新しいものが目の前に現れる、めまぐるしい未来を生きていた。
あの少年はもういない。
「俺は変わっていない」って?
そうじゃない。
今そこにいるオッサンと、あの少年は違う人間だ。
ぼやけ、変容し、捻じ曲げられた記憶を頼りに、過去を貶めてはいけない。
あの少年はもういない。
だが、まだそこにお前が
あの少年のことを誰よりも理解している
憶えてるお前がいるじゃないか。
お前は大人だ。
あの少年の思い描いたような大人になり、
今生きているあの少年の助けになればいい。
『シーズン2』ツアー、大阪BIGCATに行って来た。
筋少はバンドブームの頃から聴いているが(途中レティクル辺りから聴かなくなり、最後の聖戦で復帰)不思議とライブに行こうという発想が湧かなかった。
初めてライブで観たのが2007音魂での復活記念的ステージだった。
屈折パンクからメンヘルメタルに変わっていった時に一旦離れた気持ちは『最後の聖戦』と特撮でのパフォーマンスで再び魅きつけられており、筋少の復活を、と言うより「筋少のネームバリューを利用してのオーケンのメジャー復帰」を僕は喜んだ。
しかしどこかでその復活をお祭り的な、ファン感謝祭的な、キングクリムゾンの「スラック」的なものに感じてもいた。
音魂での筋少のパフォーマンスもやはりそんな感じで、僕は懐かしき死者の黄泉がえりに涙する肉親の心持ちで懐かしい曲に酔いしれた。
そして昨日。
筋少の復活は、盆の間の里帰りではなかった。
奴等は血肉を持って、生活を背負って蘇っていた。
まだ解決していなかったのだ。
オーケンの業は、まだ僕らを引っ張っていってくれるのだ。
普通のメタルのお約束なクサいサビやラブバラードを恥ずかし気も無く(恥ずかし気も無い素振りで?)演れるようになったのは、日和ったんじゃない。ニブったんじゃない。老化したんだ。そりゃしょうがない。
正々堂々足掻いていた安らがぬ魂が、未だに堕ちず、救われず、すっかり馴染みの煉獄で元気に足掻き続ける様は、見る者の心を打つ。
というか、同年代の僕の胸には迫るものがある。
もっと、生きなきゃなぁ。
モンスターの造形が素晴らしい監督だと思っていた。
しかし、『ヘルボーイ』って…という気持ちもあった。
経験上、異才が世に出る課程で人気シリーズの一作を手がけるという事が良くあるのは知っている。
『バットマン・リターンズ』『カリオストロの城』等、本当の才能にかかれば、とてつもない傑作ができる事が多いのも事実だ。
デル・トロ監督って、どんなもんだろう?
で、DVDで観た。
指輪物語?もののけ姫?メンインブラック?ダイ・ハードも入ってる?
パクってる。
上記作品が好きな人間なら“オオッ!”と思うほど。
そしてその“オオッ!”は決して悪い意味ではない。
悪いパクリと良いパクリを分かつもの、それは覇気だ。
「コレすげぇ!…でも、俺ならこうするな」という覇気、挑戦心。
この映画には“娯楽”を分かってる監督の才気が溢れている。
なんせテンポがいい。
クリーチャーやギミックの質感、触感がいい。
演出のツボを押さえてる、ということだ。
映画の楽しみって、その世界を「体感する」事だから、ここの上手さは必須だと思う。
楽しみな監督が出てきたものだ。
え?
前作『ヘルボーイ』もこの監督だったの?
腕を上げたの?
それとも、『バットマン』みたいに、個性のある監督の力って、ストーリーをなぞる必要のある一作目より二作目の方が発揮されるものなのかな?
2009年6月から流行を始めた新型インフルエンザ。日本での感染者が二千人を超えるあたりまでは感染者は一種国賊扱いであった。そしてその後も、少なくとも運の悪い奴、と見做されていた。
2010年春までは。
1月から、パンデミックの第二波が世界を襲った。
これは予想されていた事だった。
予想外だったのは、中国から広まった第二波がタミフル耐性と強い毒性を併せ持つ変異種だった事だ。
この流行で世界の人口は半減した。
「半減」というのは些か控え目な表現であるが。
大流行が終わった時、初期の毒性の低いウイルスに感染し、免疫を得ていた者は「神に選ばれし民」と呼ばれるようになった。
その日も朝からよく晴れていた。
得意先に出向いての研ぎの注文が入っていなかったので、左平次は玄関先で道具の手入れをしていた。
戸を開け放してできるだけ手元を明るくし、大小様々な形、色の砥石に砥をかける。
道具を手入れすると言うのは、なんにしろ気持ちのいいものだ。
柄杓で時々砥石と襤褸切れに水を含ませ、余計な力は入れずにただただ無心に砥石同士を水平に磨り合わせた。
おせんの一件以降、常に心の中に溜っていた石のような重い塊が、ひととき消え去っていた。
ふと、手元が暗くなった。
左平次が顔を上げると、戸口に恰幅の良い男が立っている。
二本差している。武士だ。
月代は作っていない、浪人か武芸師範といったなりだ。
角ばった顔に細い目、温和な印象を与えておかしくない造作なのだが、眸に酷薄の気が漂っていた。
「おやじ、研いでもらえるか」
男が言った。
「へえ」
たった一言左平次が応えると、男は腰の太刀を帯から抜いた。
何も言わずに鞘ごと渡す。
常の差料である、懐紙を咥えるほどのことは無い。
刀身を立て、鞘を上にすらっと抜いた。
一目見て、左平次の瞼が震えた。
刀身一面に血曇りが見て取れた。
突然アルティメット・ウォリアーの姿が見たくなった。
80年代後半のWWFレスラーだ。
当時、UWFやら大道塾やらシューティングやらが大好きだった僕は、WWFのビデオを借りて見たり、当時深夜にやっていたWWF番組を見たりする度に「何でこいつら毎回入場前にカメラに向かってわざとらしいだみ声で吠えるんだ」「何だこの無理のあるキャラ付けは」「何だこのヒーローショーみたいな試合運びは」と文句を言っていました。
文句を言いながら、まあ、嫌いじゃありませんでした。
その、ストロングスタイルの対極に有った当時のアメリカン・ショー・レスリングの象徴が、ジ・アルティメット・ウォリアーだったのです。
あきらかにボディ・ビルで造られた均整取れたマッシブな体。
パワー技のみのダメダメな試合展開。
必然的に短い試合時間。
アピールするのは、『パワー』。
本当にそれだけでした。
で、今ようつべで久々に動くU.W.を観るとね。
いいんですわ。
予定調和の中で跳ね回る彼の姿が、健やかで力強くて自信満々で。
バカで。
調子に乗ってるバカはいい。
見てると何だか世の中が簡単に思えてくる。
そういえば、「デカスロン」てのもいいマンガだったなぁ…
人類と自然の知恵比べについて書こう。
人類の勝ち。
何故なら、「知恵比べをしている」と考えているのは人類だけだから。
自然の勝ち。
何故なら、「知恵比べしている」と思っているのは人類の方だけだから。
人類の勝ち。
何故なら、勝敗を決めるのは人類だから。
自然の勝ち。
何故なら、人類も自然の一部に過ぎないから。
人類の勝ち。
何故なら、人類にとっての自然とは、「人類の認識する自然」に他ならないから。
自然の勝ち。
何故なら、人類には人類が認識する領域以外の自然が存在しないことを証明できないから。
自然の勝ち。
何故なら、自然は定義のはっきりしない愚かな問いに時間を費やしたりしないから。
珍しく流行物に手を出している。
通勤の電車内で読んでいたのだが、衝撃の中篇の途中だったので、つい昼休みにも読み進んでしまった。
やばい。
泣いてしまう。
「ぐほぉ」と、男泣きに泣いてしまう。
女でも男泣きだ。
できれば人目の無いところで読むべき作品だこれは。
で、感想は読了後に。
主人公「恩地元」のモデルが、実際に労働運動の懲罰人事として中東・アフリカを転々とさせられた小倉寛太郎氏なのは良く知られた事実のようですが、この小説の主人公は決して彼とイコールではありません。
作者によって、「大地に足をつけた」存在として描かれた彼は、日本航空に勤める全ての良心的社員の似姿なのです。
御巣鷹山の事故を中心に、日航の腐敗について徹底的に描きながらも、作者は常に現場の人間の誠実な努力を描きます。
この作品は日航の名誉を毀損しているとして、随分と攻撃を受けたそうですが、経営者や重役にとってはそうかも知れませんが、現場の社員については決して悪く書かれていません。
むしろ、この作品に描かれるパイロット、客室乗務員、整備士などの仕事ぶりは、一読頭の下がるものばかりで、僕は「たった一つのミスが多くの人命にかかわるような重圧のかかる職場で毎日働くなんて、僕にはとても出来ない」と、素直に感心しました。
御巣鷹山篇は、その凄絶な事故現場の描写が、心の繊細な人には衝撃的過ぎるかもしれませんが、それ以外の部分では、これは誰もが読むべき良書だと思いました。
当たり前のことですが、「真面目に自分の職務に取り組む人は素晴らしい」「名もなき誠実な人々の、日々の誠実な仕事の上に現在の日本の繁栄はある」ということを、真正面から、事実に即して、この本は教えてくれます。
決して日航のスキャンダルを扱った小説ではないことは、読んでみれば分かります。
でも、確かにこれ読むと、『公的資金投入して日航救済するのはヤメレ!』と思っちゃいますけどね。
セミドキュメント物って、人物の性格描写がステロタイプで、展開が平板でそのくせ重厚、ってイメージがあったのですが。
当たってました。
が!
すごい。
泣けます。
納得します。
決して、そっくりそのまま現実だとは思わないでください。
また、決して作者の夢想した絵空事だと思わないでください。
これは、作者山崎豊子が、綿密な取材から再構成した、“彼女の感じた”日本航空の現実なのです。
なぜ『紅葉狩り』か?
なぜ比較的派手な行事である桜鑑賞が『お花見』で、しみじみ浸る感じの紅葉鑑賞が『紅葉狩り』なのか?
最も単純かつ直感的な答えは『お紅葉見』が発音し難いから、というものだが、実は『紅葉狩り』の由来は鎌倉時代初期にあった。
百人一首に「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」という歌があるが、ここには隠された意味がある。
撰者である定家がこの歌に込めたのは、初の武家政権である鎌倉幕府への呪いである。
もみぢ葉は「赤」、つまり赤を旗印とした平氏を連想させる。
それが「みゆき」即ち天皇の訪れを待つというのは、「いつか山奥に隠れ住む平家の落人達に、王政復古の玉璽が下る、その時を待つがよい」というメッセージである。
鎌倉時代、公家の間で「紅葉」は「平氏」を表す符丁であったのだ。
ある時、丹波山中に潜む平氏の残党を討つために、一群の御家人達が貴船山を通った。
そして、紅葉の季節とて、山遊びに来た天皇一行とばったり行きあった。
天皇が輿にかかった御簾の奥から問う。
「こののどかな秋の日に、物々しき様子で何をしようというのか」
幕府の御家人といえども行幸の前に殺生を行う兵を横切らせる不敬ははばかられる。
討伐隊の侍頭は咄嗟に
「我等も風流を楽しみたく山に来ましたが、何分山と言えば狩りとしか思わぬ不調法者揃い。貴人の紅葉を眺めるところ、紅葉を狩りに参りました」
と、言い繕った。
暗に「平家を狩りに来た」と匂わすこの口上に、公家達も道を開けざるを得なかった。
武士の示した機転という事でこの逸話は以後有名になり、爾来紅葉見物を『紅葉狩り』と呼ぶようになったと言う。
嘘だけどね。
ツッコミ専門なヒトってのがいる。
そういうのがジョジョネタの記事を書いてたりすると、あって当たり前の荒木作品の矛盾点を挙げつらうばかりで(それどころかそういう手合いは自己流解釈に固執するので、読み違えからくる言い掛かりも多い)読んでいて不快になる。
勿論、ツッコミ一律禁止と言うつもりはない。
みんながうっすら思っていたツッコミポイントを、的確に突いてくれてる文章など見ると、それ自体ネタとして面白い。
要は書き手がどういうつもりで書いているかだ。
「俺の方が賢いんだ」と皆にアピールしたがっている文が、誰にとっても楽しいわけがない。
そういう輩は決まって冷笑的な語り口を気取るし、大抵舌っ足らずな、説明不足な文章を書く。
相手に丁寧に自分の考えを伝えることより、ポーズとして相手より上位に立つ事を優先するゆえだ。
冷笑的でなければ馬鹿にされると思うのは、冷笑的でなければ馬鹿にされると思っている集団の中に居るからだ。
楽しい奴を見つけて、寄っていけ。
“楽しい”ってのは、誰かを下に置いて上に立つ気分じゃなくて、触れた人も一緒に持ち上げてくれるノリのことだぜ。
代替エネルギー源なら、オゾン層が減ってパワーを増してる太陽光を受けてそれを熱以外の形にして地球温暖化を防ぐ事にも一役買ってくれる太陽電池がいいよね。でも、電力は貯蔵が効かないから夜間や悪天候に左右されないエネルギー源としては化学燃料の方がいいよね。
だから、太陽光を使って炭素化合物を造り出すような装置が有れば一番いいよね。
地下水を自動的に吸い上げ、空気中の二酸化炭素を原料に使い、どこででも自律的に活動し、自らの造り出した炭素化合物を材料に成長し、繁殖する、そんな装置が理想的だよね。
ちょうど植物がそんな感じだよね。
「人間には2種類ある。公衆便所で他人のうんこの残り香を気にする者と、自分のうんこの残り香を気にする者だ」
感動的な2分法である。
「うんこの残り香」という卑近なテーマを使いつつ、人間の倫理について説いている風な所が『トイレの神様』めいてて素晴らしい。
『トイレの神様』ちゃんと聴いた事無いので想像で言っているが。
しかし、論理的にはこれは正しくない。
「他人のうんこの残り香」と「自分のうんこの残り香」という、排他的でない2つの事柄について語っているので、残り香の気に仕方について全ての場合を網羅するなら、「人間には4種類ある。他人のうんこの残り香を気にするが自分のうんこの残り香は気にしない者と、他人のうんこの残り香は気にしないが自分のうんこの残り香を気にする者と、他人のうんこの残り香も自分のうんこの残り香も気にしない者と、他人のうんこの残り香も自分のうんこの残り香も気になる者だ」が正しい。
が、しかしこれは数学的あるいは論理学的に正しいに過ぎない。現実の状況というのは常にもっと複雑だ。
「他人の10分以上前のうんこの残り香は気にならないが、他人の新鮮なうんこの残り香は気になる」人や「他人の健康なうんこの残り香は気にしないが、他人の下し気味のうんこの残り香は気になって仕方が無い」人等が世の中には居る。
単純な2分法による世の中の色分けはかくして、人生経験の前にその化けの皮を剥がれる。
年を経て人間が丸くなるという事は、決して感覚が鈍化するという事だけではなく、人について学ぶ事で単純な2元論から解放され、より柔らかな視点を得るという事なのである。
「そっちは台風大丈夫ですか」
「ええ、もうこっちは晴れてます」
言いながら目をやる窓の外、道のアスファルトはすっかり乾いていたが、空には薄暗い雲が広がっている。
「雨は止んでいます」
と、言うべきだった、と思う。
こういう時に「曇り」という表現は使いにくい。
台風一過、すでに雨は上がって久しい、ということを表すのに「こっちは曇っています」と言うと、なんだかまだ晴れたわけではないと強調している気がしてしまう。
日本語では、「曇り」は雨の眷属なのだ。
「じゃあ、明日晴れたら釣り行こうね」と言われて「曇ったら?」とは問い返さない。
「晴れたら」は、天日干しでもする時以外、「雨でなければ」の意味を持つから。
昔日本に「みどり」という言葉が無かった時代、「青空」も「青葉」も等しく青だった。
「曇り」が無かった時代には、雨が降ってない日は全て「晴れ」と呼ばれたのだろう。
どうせ降りだせば濡れるのなら、厚い雲でも「晴れ」と呼ばないか。
いにしへの人のように、そこに何の前兆も読み取らず。
そして、今にも割れそうな曇天を見上げて、言わないか。
「まだだ。まだ晴れてる」と。
「あなたって、食べたの昨日なのにまだ口に残ってるニラの繊維みたいな感じなの。もう別れましょう」
「なんだよ、その、歯にものが挟まったような口の利き方は」
「詩人」と「哲学者」は、職業を表す言葉と人の性向を表す言葉の二つの面を持つ。
「あの人は詩人だねえ」というのは、必ずしも路上で色紙を売っている人に向けられた言葉と限らない。
「あの人は哲学をもっている」というのも、ハイデガーなりフッサールなりの信奉者にのみ使われる言い回しではない。
「詩」と「哲学」、つまり人生に思い描く楽しみと人生を歩む上でのルールとは、誰もが当たり前に持つものだからだ。
学問としての哲学は、西欧が「教会」から「学会」の下に『真実』を定義する権利を奪い取るために発達したが、第三世界が発展し、いかなる学会でもインド系、中国系の学者が活躍するようになって、その役割を終えた。
今は、学問としての哲学の系譜は、エリアーデやデリダが前世紀末に主張した「人間の思想について話し合う語彙を増やす」ためのツールとして、現代思想あるいは現代文学に命脈を保っているにすぎない。
つまり、人の哲学を『間違っている』呼ばわりするような、真実についての学としての哲学はもう終わっているのだ。
僕が教養科目として学んだアメリカの哲学者ローティもそういう立場。
では、初めに述べた「人の生きるルール」あるいは「世界をどういったものと把握するか」というような、個人にとっての「哲学」の方はどうかというと、こちらの重要度は、時代によって下がったりしない。
人生に哲学がなく、その場その場の対応で方針を変える人は、信用できないからだ。
しかし、こちらの意味の哲学は、「その哲学は間違っている」「その哲学は幼稚だ」と他人が軽々に言う筋合いのものではない。
人の、人生にかけるモチベーションはそれぞれに異なり、多くの場合、幼少期の体験や教育によって、その人に刻み込まれたものだからだ。
真実など無い、という意見も真実は一つ、という意見も、発言者の人生を知らずに肯定も否定も出来るものではない。
数学的な意味と違い、まず「真・偽」の定義からして、発話者の人生を反映したものだからだ。(数学の場合は、まず『○○を真とすると』というように公理(無条件で真とされる命題群)の仮定から話が始まる)
職種によっては特定の人生観を社員が共有する必要のあるものなどもあるだろうが、個人的な場において個々の「哲学」の優劣を論ずることは、従って、現在では意味の無いこととされる。
いや、格好をつけて曖昧な表現になった。
過去の一時期、「哲学」は個々の人生観を正す絶対的真実についての学と考えられていたこともあったが、そのようなアカデミズム、西欧中心主義は間違っている。
個々の人の持つ哲学についての学は、心理学、発達心理学、社会心理学などの受け持ちとなった。
他人の哲学について、哲学は何も語るべきではないのだ。
C#で、あるオブジェクトのメンバである配列を
int[] P = obj.p;
と参照したと思いねえ。
Cならポインタのコピーだ。ワンステップの処理にすぎない。
が、その一文で全体の処理時間が10倍から違うなんて事が起こった。
おそらく、一見メンバーそのものにしか見えないobj.pはプロパティで、代入の際にゲッターが配列を生成してるのだろう、という話になった。
隠蔽によって変数にしか見えなくなったインターフェイスは便利だけれども。
むき出しのパブリック変数より安全だけれども。
目に見えないところに重い処理が潜んでいるのは勘弁してほしい。と思った。
自由化、規制緩和、競争原理、市場原理、自己責任、皆、導入時にはそれによって誰かに独占されていたチャンスが自分に回ってくると考える。
だが、誰かの仕切りで分けようが、争って奪い合おうが、パイの大きさが同じなら全員の取り分が増えることはない。
結局パイにありつけなかった大多数が「昔のように皆で分けあおう」と叫び始める。
中国でも、ロシアでも、日本でも。
なんてことをぼんやり考えるのは、ちょっと仕事に疲れているせいか?
空気を作る、加藤大悟はまさにそんなキャラクターだった。
感情表現が大きくストレートで、善かれ悪しかれ、いつでもクラスのムードを作っていた。
体育祭で2年3組が素晴らしいチームワークを見せたのが「善かれ」の方。
12月の末にクラスのイジラレキャラ佐竹育郎がマンションの非常階段から飛び降りて死んだのが「悪しかれ」の方だった。
彼が空気を作っていたので、彼とそのグループの行う「育郎いじり」を、「いじめ」と感じて笑いの輪に加われない者は、「空気の読めない奴」としてクラスのメインストリームから外された。
青野正子はそんな一人だった。
中学二年の一年間で、彼女は空気を作る者の傲慢と、空気に従う者の卑劣を知った。
公園で、地面に落ちている何だか分からないものを一所懸命ついばみ歩いている雀と鳩を見て思った。
間違って枯れ枝だったり土くれだったりをつつきながらも地面の餌をあさるなんて、この子らよっぽど飢えてんだろうな、と。
さらに思った。
人間は自然に反した生き方をしている風によく言われるけど。
一日三食、腹一杯食べるのは飽食の時代現代の悪癖みたいに言われるけど。
じゃあ、野性動物は一日何食だといえば、「腹が減ってて、食えるときに食う」な訳ですよ。
飽食できるんなら、飽食が自然ってことじゃん。
夢の見方を忘れた。
何かが変わったんだ。
きっと内分泌系の働きも変わった。
でもそれが原因か結果かは分からない。
もと自分の居た位置に戻れないとき、「失った」と思ってしまうけど。「衰えた」と思ってしまうけど。
きっと生まれてこの方ずっと多幸感と万能感の波にたゆたう感覚など味わったことの無い人もいるだろう。
そんな人の中に入ったと思えばいい。
衰え始めたじじいの体に押し込められたと思えばいい。
それでも俺ならなんとか出来んだろ?
ほとんど何もないところから、どうやってコンピュータを作ればいいかをお教えしましょう。
まず、用意する材料は炭素に水素、それに酸素に窒素てす。
鉄や金やゲルマニウムが必要だろうって?
そんなものはほんの0.000数パーセントあればいいのです。
大切なのは、鎖状化合物を生みやすい炭素や珪素のような元素と、大きなエネルギーを得やすい、恒星から程近い環境。
そんな条件を満たす惑星を一つ用意すれば、あとは数億年待つだけです。
遅くとも45億年もすれば、何らかの演算装置が地に満ちるでしょう。
不思議なことですが、この世で最も精密で数学的な構造物は、腐食性ガスに満たされた大気の下、内部に水を満たした変形性有機物の手によって生み出されるのです。
私は快楽主義者だ。
私の言う快楽主義は、自分や他人にストレスを与えてまで自分の肉体的快感を求めるようなものではない。
そういったバッカス信仰的行き方は私にはむしろ苦行僧の暮らしに思える。
私の快楽主義は、端的に言うと自分の受けるストレスを最小化することだ。
たとえば、レストランで食事中、皿の中に虫を見つけたとする。
お金がなくて空腹であれば、やむを得ず苦情を言って料理を替えてもらうが、そうでなければその皿はそのままに代わりの料理を注文する。
楽しく食事をしているときに揉めたくないのだ。
何より大事なのは経済効率でも社会正義でもなく、自分の時間を快適に過ごすことなのだ。
楽しむために行った先では最大限に楽しむことを重視する。
仕事をするために使う時間は、効率を何より考慮する。
自分の時間は自分の目的以外に割きたくない、それが私の快楽主義だ。
人は多く自分のコンプレックスに引っかかり時間を浪費する。
する要のない揉め事に好んで頭を突っ込む。
自分にとって何が大切か、考えること。
感情が昂ったとき、ストレスに曝されたときにこそそうすること。
快楽主義は逃走中の猫のように、全力疾走のさなかにピタリ、と立ち止まることから始まる。
若い頃、と言っても、自らの天稟の無さに気付く程には年を経た時分から、彼は人生を退屈な長い時間と捉えるようになっていた。
と言って、そのことに何ら不満はなかった。
自分が生み出すものに望みが持てなくとも、世界には素晴らしい事が沢山あるのは分かっていたし、震えるような歓びを伴わぬとしても、日々の楽しみを賄えるほどの仕事はあると知っていたからだ。
面白そうな本を買い、そのページに挟まった新刊予告の紙片に次の楽しみを見つけ、そうして長い人生の午後を好きに過ごすつもりだったのだ。
彼にとっての人生が忙しいものに変わったのは、そんな時間潰しを15年も続けた後。
理由は単純、恋に落ちたのだ。
彼と同じように、あぶくの中から海を見るような、世の中と自分との間に薄い膜を感じる女性だった。
彼女が彼と違うのは、幸せになりたいと切望している事だった。
彼女は、彼に愛されていることが幸せの条件だと言った。
それで、彼の人生は短くなった。
もて余していた退屈な時間は、彼女の永遠の幸せを容れるに足りない一瞬に変わった。
今気付いた。
俺って今、俺史上最高齢に達してるわwwwww
私の事?なのw
未来から俺がこの時代に来たとして、「俺史上最高齢は俺の方だ」と言ったとしよう。
未来の俺は、勿論俺と同じ名前、同じDNA、同じ経験を持っている。
でも、俺にとって目の前に来たその人は「俺」じゃなくて「あなた」で、やっぱり俺史上最高齢は俺なんだ。
例え何十年後かの俺がタイムマシンで過去に帰り、今目の前にいる「あなた」と同じ体験をしたとしても、やはり俺はあなたじゃない。
俺が俺である理由は、俺に紐付く情報を持っているからではなく、俺が俺の頭蓋の中から世界を見ているというその一点にある。
俺はこの中からあなたを見ている。
あなたはその頭蓋の中からこっちを見ている。
その時点で俺とあなたは区別される。
俺は現時点で記憶の中の全ての俺より歳上で、間違いなく俺史上最高齢だ。
それは、タイムマシンでやって来た俺であるあなたが幾つであるかに関わらず、だ。
道具を使うと人間は楽になる。
弓を手にした人間は、楽に鹿を狩れるようになった。
飛びかかって、石で何度も頭を打ち、我も彼も血みどろになって殺すより、数段楽に罪のない獣の肉にありつけるようになった。
銃を発明した人間は、楽に戦に臨めるようになった。
刀を持って向き合って、命乞いを遮り振り下ろした刃の感触を、何度も何度もその後の夢に見る事なく、自分と同じ人間を屠れるようになった。
道具は人を軽くする。
照準の向こうの人間は、もはや標的に過ぎない。
肉体性から切り離されると、どんな感情も希薄になる。
ネットは、人を楽にした。
醜い言葉を投げつける相手は、液晶の向こうのただのハンドルネームに過ぎない。
相手につかみかかられる事もなく、目の前で泣き崩れられる事もなく、腐った内蔵から溢れる汚物を気に入らぬ誰彼に浴びせかける事が出来る。
道具は人を楽にした。
想像力のない人を。
自分の身体も痛まねば、人の痛みを感じられぬ人を。
「やっぱ秀丸なんだ。俺はサクラ派だな」
「サクラって、たまに使ってる人いるけど、いいの?」
「いいって言うか・・・エディタに求めるものってそんなに多くないじゃない?」
「そうか?」
「ワードみたいにさ、行頭に数字入れたら勝手に段落にされたり、キャメルの関数名の大文字小文字勝手に直されたり、要らん機能だと思わない?」
「まあそれは設定だと思うけど、確かに時々イラッとするね」
「要はさ、グレップがあって、使いやすい検索とある程度の言語解析ができて、文字エンコードと改行コードの変更ができたら、あとは矩形選択くらいあればそれで充分なのよ」
「まあ、そんなとこかな。でもそれは全部秀丸で出来るぜ。サクラを特に推す理由ってないのかよ」
「うーん・・・」
「サクラってさ」
「びっくりした。その話30分前に終わったと思ってたよ。ていうか立ち消えに。」
「サクラって、趣味の匂いがするんだよ」
「なに、趣味?」
「そう。アイコンがちょっとふざけてたり、デフォルトの紙色がうっすらピンクだったり」
「あー、そういうのがいいんだ」
「秀丸って、なんかプロっぽいじゃん。無味乾燥で、Viとかラインエディタっぽいていうか」
「いや、そりゃ背景黒や青で使う人も多いけど、ラインエディタってのはほぼ言いがかり・・・」
「結局俺はどっかソフト作りを趣味にしときたい部分があるんだわ、きっと。プログラマより、ハッカーでいたいんだわ」
「そうなんだ?でもむしろハッカーっつうと秀丸やVi使ってそうな気が」
「だから、C言語モードで#elseが反映されなくても、diffがいつまでたっても使えない代物でも、やっぱサクラを使ってたいんだよね」
「・・・ダメじゃん、それ・・・」
dfcsdrhbm
僕が電車に遅れたのか、電車が遅れていたのか、不思議と何にもミスした覚えがないのに時間に遅れた。
まあ、ままあることだ。
うそ。そんなことがままあったらたまらない。
相対性理論が証明したなんやかやにかかわらず、地上の時の刻みは等し並で、理由もなく遅れるなんてことはない。
いや、もしかしたら時の刻みは相対的だからこそ、南の国では許されるちょっとした遅れでも、この極東の世界一パンクチュアルな国では許されぬのか。
京都の夏は暑かった。
動かない熱い空気に蓋われた街は、まるごとラップされチンされて茹っているみたいだった。
地元よりも暑い、と太鼓判を押す九州、四国出身者もいた。
京は冬も厳しかった。
後に私は滋賀にも住んだが、雪の多い滋賀の方が、それでも過ごし易かった記憶がある。
やはり地元超えを断言する北海道出身者も居た。
京都は盆地なので、冬の寒さ、夏の暑さは格別なのだ。
しかし、だからこそ、京の人は昔から春の訪れ秋の到来を喜んだ。
町中の古刹の庭に見える梅や、疎水の水面を埋める桜、嵐山や清水の紅葉など、京に春秋の楽しみの多いのは、その気候のせいもあるのだ。
辛い時間というのは、訪れる解放のための喜びを貯金する期間なんだよ
とか、うまい事言おうとする人も居た。
そんな理屈はパチンコ中毒者ならみんな知ってることなのだが。
男らしくとか、女らしくとか。
歳相応ってのもそうだな。
日本人の美徳と最近持ち上げられる“恥”の文化とは、一面自分の判断に自信を持てない、理性を欠いた文化でもある。
自分の行動、言動が正しいかどうかは、自分で考え抜いて決めるべきことなのに、他人からの視線にそれを委ねてしまう。
法を守る、正義を行うといったって、周りが守ってるから守ろうという奴は、周りがイジメをしてればそれに加わる奴だ。
“相応"にしてないと“恥ずかしい”よね。
自分で何が正しいかなんて判断できないから、学校で教わること以外勉強する暇なんてないから、目に見えない圧力のままに自分の形を決める。
顔のない、化け物たち。
何時からかAは、若い頃の感動を思い出すことはあっても、新しい感動を受け入れるということがなくなっていた。
そしてそれは、大人の一種の『責任』だ、とも感じていた。
大人は、自分の選んだ正義を軽々に翻してはならない。
誰かが悲しみや苦しみの声を上げても、それで自分の生き方の軸をぶらしてはならない。
そう、思っていた。
また、ちょっとやそっとで揺らがぬ自分を作り上げるため、若い頃はそれなりに見聞も広め、勉強もしたつもりだった。
どんな新しい芸術に触れても、『ああ、あれね、僕も若い頃はそれ系にはまったよ』などと返せるのは、嫌味な性格と思われるかもしれないが、よく学んだまっとうな大人の証拠であると思っていた。
しかし、頭の良さでは一目置いていた友人が、新しいものに感動して恥じない様子を目にすると、なんとも言えず不安な気持ちになったのだ。
僕は、何でも知っているとは言わないが、何が来ても揺らがぬ基準を見出している。
どんな新しい声を聞いても、もはや動揺したり後悔したりしない。
自信満々にこの世の中を渡って行くためには、そういった一種の傲慢は必要不可欠なものなんだ。
大人になっても新しいものに感動したとか言ってる奴は、人生を変えるほどの感動を知らない上っ面ばかりの野郎だ。
そう思っていたのに。
自分の不惑はただ年寄りの頑固さに過ぎなかったのではないか。
あざ笑うかのような口調で友人に対してしまったのは、そんな不安を押し隠すためだったのではなかったか。暗い窓の外をぼんやり見ながら、Aはそんなことを考えた。
感動っていうのは危険なものなんだ。
それは、色んな権威を平らにしてしまう。
色んな価値を逆転させてしまう。
感動した人間は、今あるものを変えようとする。
感動した人間は、人々の当たり前に疑問を投げかける。
だから、今現在常識に護られている側の人間は感動に警戒する。
皆の既に知っている、常識と認められたもの以外の感動を嫌悪する。
それを『権力の慣性』と表現してもよいし、『保守』と呼んでもいい。
それとも、端的に『老い』と表現してもいい。
Aは最近、仲良くしていたあるネット上の友人に、苛立ちめいたものを感じるようになった。
きっかけは、その男があるアーティストのライブを観に行ったと言ったことだった。
「へー、僕はもうそういうノリにはついていけないなあ」
と、返した彼の言葉に、友人は噛み付いた。
「僕も『そういうノリ』には興味はないよ、どういう意味か解らないけど。
それに、ただ若さからくる勢いで暴れるような音楽は、若い頃から嫌いだったさ」
自分より年上のはずの友人の言葉に、Aも少しカチンときた。
「君は気が若いなあ。僕はもう、自分の青臭さに陶酔できるエネルギーが無いよ」
と、思いがけず強い言葉を返してしまった。
友人は、それ以上何も言わずに話題を転じた。
あのとき、自分は彼が『若ぶっている』と解釈して言葉を返したわけだが、実際にはもっと違うことを感じて苛立ったような気がしていた。
それは、彼が素直に新しいものに『感動』しているという点ではないか。
当たり前のことだが、民主主義はお上に逆らう民衆それ自身によってしか獲得され得ないのだ。
強い者の意見に従いたい、大多数と話を合わせたい、そういう社会性動物としての、いわば「猿の本能」に安住できず、自らの感じる真実のみを信じ続ける異端。
それを(西欧ほど積極的ではないにしても)受け入れる度量があったからこそ、日本は近代国家として発展できたのだ。
日本の電子技術は盗まれたかもしれない。
日本の素材技術は盗まれるかもしれない。
しかし、100年かけて育てられた、日本の「自由」や「民主主義」は盗めない。
そればかりは、自分で苦しんで生み出す他ない。
どんなにAKBがヒットチャート上位を占めようと、どんなに懐かしのアニメ実写リメイクが劇場公開されようと、日本の若い才能たちは今も血を吐くような歌を、映像を作り続けている。
そういう人たちが食っていける程度には、彼らの叫びに耳を傾ける人々が居る。
アベノミクスとかクールジャパンとかじゃなく、庶民が支えるそういった文化環境があること。
それが日本の力だ。
普通の、あるいは「底辺」と呼ばれる人々が、声を上げ、声を聞き、繋がる事。
それが日本のインフラだ。
決して盗めない、価値とも思われないそうしたものが、日本を「アジアで唯一の民主国家」たらしめているのだと、私は思う。
今日2月10日は平塚らいてうの誕生日だという。
Google先生に教えてもらった。
私は、Googleのロゴにリンクされた簡単な説明を読んだ。
らいてう女史は、名門女学校を卒業したが心中未遂事件を起こし、不名誉を嫌った女学校に、同窓会名簿から抹消という処分を受けたという。
当時は、良家の子女たるもの感情に流されてそのような不祥事を起こすなど以ての外、であり、良識ある市民から見て彼女は、眉を顰めたくなる「イタい人」であったのだ。
しかしその後彼女は、女性解放運動の旗手となり、日本の女性の権利拡充に貢献する。
ここで、私は「しかし」と言ったが、実はこれは少しも「しかし」ではない。
今そこにある規律、今世を統べる権力に逆らうには、行儀の良くない、「イタさ」こそが必要なのだ。
江戸末期から昭和に至る日本の歴史には、都度々々そういった「イタい」人たちの奮闘がちりばめられている。
子供の頃、教科書で習った「田中正造」や「平塚雷鳥」、「樋口一葉」「夏目漱石」などは、皆きちんとした『偉い人』だと思っていた。
しかし、最近になり中国や韓国での人権・民主主義の立ち遅れを目にするにつけ、それが間違いであることに気づいた。
既存の権力に楯突いて、弱者の利益を守ろうとする運動は、既存の権威からは生まれない。
中国や韓国がいくら行政主導で民主主義を実現しようとしても(中国政府はそんなものを実現したいとも思っていないが)、「自由な発言」の台本を読ませることから自由な発言など生まれない。
昔、セーラームーンというアニメがあってだな。
それを大人が見ると、この14歳女子、妖魔とか人間じゃないし悪い事するからと言って、何人もコ○しておいて次の日学校で普通に笑ってるとかサイコパスかよ、コ○し合いとかしたらもっと荒むだろうフツー、とか、このルナって猫、月野うさぎが有能サイコパスで敵を全滅させられたから良かったものの、初戦でバラバラにされてたら、「ちっ、使えねえ」って次の候補口説きに行ってたのかよ、とんでもねえ魔獣だな、とか、これ全員親バレレベルの怪我さえしないで一方的に敵をコ○し続けられたから良かったものの、何人か戦死してたら雰囲気悪くなってたろうな、とか思ったわけだが。
そう言う魔法少女アニメへの、フルスイングツッコミ。
どんな開発でも、情報の共有ってのは大切なのよ。
それは、良いものを作るために必要ってだけじゃなく、無駄なストレスを受けないためにも大切な事なのよ。
何かのプログラムで、ある操作ミスをされると、電源リセットしてもらうしかない状態になるとしよう。
改修は可能だが、それには構造的な変更が必要だとしよう。
そういう時、良い解決法が思い付かないからと、そのバグについて黙っている人がいる。
もとより操作ミスしなければ起こらない事、と高を括っていると、現場でそれが発生し、大きな問題になる。
システムは三日間で大改修を命じられる。
解決に非常なコストがかかる、致命的とは言えないバグは、報告さえしておけば何てことはなくなる。
周知さえしておけば、現場対応で「そのミスしちゃうと、リセットお願いすることになるんですよ〜」と言うだけで済む。
つまり、既知なら仕様で済むものも、未知だとバグとされるんだ。
だから、小さく手強い面倒は単に報告を上げよう。
情報の共有は、それ自体解決策の事がある。
サイコパスって、得体の知れない怪物を思わせる言葉なもので、漫画や小説に便利に使われ過ぎた。
でも、人間はサイコパスなんだよ。
サイコパスだからネアンデルタール人を圧倒出来たんだよ。
石で殴れば相手は死ぬ。
それが分かってて出来る者が戦に勝ってきた。
自分と同じ部族でない奴は殺してもいい。
自分の郎党でない者は、自分と同じ国でない者は、殺してもいい、そう思える事が、人類の武器だった。
岩明さんの「ヒストリエ」に出てくるスキタイ人が、ローマ人を躊躇なく殺戮する様子はまさにサイコパスだ。
ただ、現代社会の中で、感情移入出来る集団を一つも持たない孤立した人格が、自分以外の全ての生命に対して無慈悲である様子を見たとき、人はそれをサイコパスと呼ぶのだ。
サイコパスはだから現代病ではない。
社会が解体されて、拠り所を失う人が増えると、反社会的で猟奇的な殺人は増える。
明治時代がそうだった。
第二次大戦直後もそう、おそらく戦国時代後半から江戸初期もそうだったろう。
サイコパスというのは特別な先天的欠陥ではなく、人間に本来的に備わった怪物的要素を誤って育てた結果なのだ。
サイコパスは犯罪の原因ではない。
結果なのだ。
タイに多数の子供を作った24歳男性の動機。
親から多額の遺産を相続したが、コミュニケーション障害気味で、自分で運用なんて出来ない。
周りの親戚、知り合いなんて信用できない。
ただ貯蓄を食い潰して生きるとなると、日本では贅沢な暮らしはできない。
タイなら物価安いから王侯貴族の暮らしが出来るんじゃね?
実際タイで暮らしてみると、10万20万で贅沢三昧できた!
ここに住もうか、でも、信頼できる人もいないとこで永住なんて、コミュ障の僕には辛すぎる。
そうだ、子供を作って周りを固めればいい、今のうちから作っておけば、僕が50になる頃には頼り甲斐ある大人に育つ。
タイなら、卵子提供とか代理母とかで、1000万もあれば何十人も子供が持てる。
僕に従順な身内に囲まれて、富豪の暮らしを一生続けられる、僕天才!
と、推理した。
俺の推理短絡的じゃね?
マレフィセント見た。
ネタバレ有り
アナ雪とオチ丸カブリじゃん。
自分が過去にしていた素敵な事をすっかり忘れていて、随分時間が経ってから再発見して嬉しいって、あるよね。
例えば、詰め替え用シャンプーの買い置きを思いがけず見つけた時のような、そんな喜び。
そんな事がついさっき、僕の身にも起こったんだ。
何って、つまり詰め替え用シャンプーの買い置きを思いがけず見つけたんだ。
郷里の新しい名物となった大きなビルが遥かに見える。
僕の毎日の通勤途中の風景だ。
朝から日射しが空気を灼くこんな日でも、電車は快適に空調され、早馬より速いスピードで国境の山の下をくぐる。
昔沼地だった見晴るかす家並みを眺めて、こんな速度で進化を遂げた生き物はこれまでに無かったろうな、などと僕は思う。
そして、進化という言葉から別の考えが浮かぶ。
僕が思いを馳せた江戸時代の人と比べて、今の僕達は進化しているか?
むしろ、肉体の機能的には退行しているのではないか。
今の快適な生活は、個人の機能の進化というより、環境の進化によるものではないか。
その環境を生み出す知性が進化したのだと言ったところで、その知性でさえも積み重なった先人の知性の上に立って届いた高みで、個人からすればその学ぶべき科学知識もやはり環境の一部と言える。
僕等はただその環境に適応して生きているだけではないか。
環境の進化がさらなる環境の進化を産み、僕らの暮らしは変わり続ける。
CPUは変わっていない。
拡張機能、アクセサリー、オプション、外部デバイスが僕等を高機能にしたのだ。
コンピュータに例えたところで、陳腐なレトリックが浮かぶ。
『僕達は外部デバイスのみを拡張し、互いを容易に破壊できるようになった。だか、OSのバージョンアップが遅れているのではないだろうか』
ビートルズを聴けば世界が平和になると結論づけても仕方がない。
だけど、僕の強さ、速さ、賢さのほとんどは自分のものではなくて『環境』なんだと知ることは僕には意味のあることに思えた。
個が組織となり伝統、文化を築いてきたのが環境です。
環境にはもうひとつあります。それは太陽から始まり植物そして水
朝から汗が背中をつたう。
気持ち悪い。
こんな時、人間にはなんて不快な機能が付いているものか、とか思ってしまう。
でも、少し風が吹くとその背中が涼しくなる。
気化熱。
人間には、なんて素敵な機能が付いているものか、と感じる。
例えば自動車の表面加工で、ボンネット内の温度が一定以上になると、微細な穴から水分が出るというのはどうか。
走行中ならエンジンルームの温度が劇的に下がる。
エコだ。バイオインスパイアードだ。
だけど、蒸し暑いある日、停車中の車のボンネットにふと手を着いた時に、ペトっと湿った感触に、やはり「気持ち悪い」と思ってしまうんだろうなあ。
謎なのは、効率の良い冷却システムである発汗を装備していながら、なぜ僕はその水滴を不快に感じるか、ってことだ。
なぜ僕達は汗まみれでいることを嫌がるのか。
なぜ人類はそんな風に進化してしまったのか。
思いつく理由は二つほど。
汗が乾かず体表を伝うような高温多湿の環境は有害なので、速やかにそこから離れる行動を取るような、その状態を不快に感じる個体が生存に有利だったから。
あるいは、感染症などの原因になるので、汗に限らず泥水や汚物など湿ったものが体表に付着する事自体を嫌うことが生存に有利だったから。
まあ、どちらかに決める必要も無いが。
何にしろ、不快感による行動の制御ってのは、自然界の定番だ。
お陰で僕は今日も背中をつたう汗を気にするわけだ。
だからさ、なんでそんなに進化の道筋にこだわるのさ?
例えば、古代文明が遺したとても大きな機械があったとしよう。
その一つの部品の存在意義を知りたいと思ったら、君は「神がそう望んだから」という説明で納得するかい?
うーん。するかも。
…古代文明とか言ったのが間違いだったか。
じゃあ、既存の巨大システムのソースを解析してるとき、ある関数の存在意義を知りたいと思ったら、君は神の意志を探るかい?
いや、そんなことはしないな(笑)
だろ?
それがシステムの中でどんな役に立っているか、本当のところを知りたいだろう?
例えその理由が、ある数字の端数を切り捨てるため、というだけであっても、それがその関数の存在理由として辻褄が合っていれば、「そんな風に解釈することはその関数に対する侮辱だ」なんて思わないよな。
そりぁあな。
つまりそういうことさ。
僕は「全ての生命は神に愛されている」とかいうのではない、本当のところの自分の存在意義を知りたいだけなんだ。
何かの端数を切り捨てる為って分かっちゃったらどうすんの、それで。
だったら、端数を切り捨てるさ、それが人の迷惑にならないことならね。
それで僕は幸せなんだ。
ぼくは飲み会で家族狩り見れない。
残念極まりないんじゃね?
以前、私は「人類の文明は、個人にとっては『環境』だ」という意見を掲示板に書いた。
すると、「個が組織となり伝統、文化を築いてきたのが環境です。環境にはもうひとつあります。それは太陽から始まり植物そして水(といった人間を取り巻く自然です?)」という不思議なお叱りを頂いた。
その人にとって「環境」という言葉は、単に「あるものを取り巻く外部要因」という意味ではなく、人類規模の大切な何かを表すものらしい。
これは恐らく、小学校などで「(自然)環境は大切」「(自然)環境は掛け替えのないもの」といったキャッチフレーズ授業に触れて、環境=人類を取り巻く環境、という印象が刻み込まれてしまったせいなのだろう。
「個が組織となり伝統、文化を築いてきたのが環境です。環境にはもうひとつあります。それは太陽から始まり植物そして水…」
キャッチフレーズ授業の作文で、精一杯いい評価をもらおうと背伸びする小学生の文章だ。
確かに自然環境の大切さは彼の心に刻まれているかも知れないが、某国の将軍様を讃える定型文のようなこんな言葉をひねり出すために、かれは「環境」という言葉の自由な使い方を失ってしまった。
社会の不安定化を受けて、道徳教育の強化を叫ぶ人達がいる。
しかし、こんな風に道徳と引き換えに論理的思考を奪われる子供が増えるなら、長い目で見てはたしてそれは国の利益となるのだろうか。
キャッチフレーズや標語、短くまとめられた文章は、人の印象に残りやすい。
「自然は大切です」「イジメはいけません」と、キーワードと組み合わせて児童の情操教育にも多用される。
自然=善いもの、イジメ=悪いもの、という単純な図式は子供にも呑み込みやすいからだ。
しかし、そうした教育には副作用もある。
キーワードが、特定の印象と結び付いて覚えられてしまうのだ。
「環境」という言葉がある。
あるものの外部から影響を与えるもの全般を表す言葉だ。
ハムスターにとって、カゴやら回し車、置かれてる部屋の温度や飼い主がそれに当たる。
ネットユーザーにとってはプロバイダの回線速度などがネット環境、ゲーム機器にとってはディスプレイの解像度やコントローラの性能がゲーム環境だ。
何かを取り巻く周囲の状況は何でも、一般に「環境」と呼ぶのだ。
だから、写真家の言う「環境光」や録音技術者の言う「環境ノイズ」、ソフト屋の「環境変数」も単に外部からの何かを表す。別に自然の光や鳥の囀り、森の変数なんて意味は無い。
なんでこのタイミングで環境について反論してくるんですか?
全部後付けで困ります。
環境環境てうるさいんじゃね?
荒れてる掲示板感!
自演ってばれてるかな?
おはようございます
俺が荒らしました。すみません。
どういたしまして。
勝手な意見を書き散らすだけの板が、ちょっと盛り上がって楽しかったです。
ここで、なぜ僕が「環境」レスを特に取り上げたのか、一言。
僕は、他人のものの見方を、理解せずに否定するという行為が嫌いです。
2chによくある
「哲学は人生を生きる指針を教えてくれるよな」
と言うのに対して
「何言ってんの、哲学は科学の正当性を証明する学問だよ」
とレスするようなアレです。
キリスト教の影響下にあった西欧人にとっては、「(神に対しての)科学の正当性を証明する」ということと、哲学が「人生の指針となる」こととは、前者が無ければ後者が成立しない不可分なものでしたが、神がそんなに個人の世界観に口を出さない日本では、その二つが全く違う事柄に思われるという、それだけの事なのに。
自分と異なる意見に出会ったら、それを理解し、「ふーん、そういう考えもあるんだな」でいいじゃないですか。
相手の言い分を理解した上で異論があれば、「でもここはこうじゃないの」と言えばいい、そこからは有意義な議論が生まれるでしょう。
で、頭ごなしに「あなたは間違ってます。○○の意味はXXです」などと決め付ける言い方はどこから来るのだろう、と考えた時に、あ、小学校の先生でそういうの居るよな、と思ったわけです。
生徒にものの見方考え方を強制するような決め付け授業。それに乗っかって「何でそうなるの?」と聞く生徒に「○○先生がそう言ってただろ、バ〜カ」とか言っちゃう奴。
そんな色々が思い出されて、なんだかむしゃくしゃしてやった、後悔はしていない。
海賊の話をしようと思う。
僕が海賊を好きなのは、16世紀のイギリスの海賊船長、キャプテン・ドレークが大好きだからなんだ。
キャプテン・ドレークは、海賊女王として有名だったエリザベスTのもと、一種の国営海賊として、先にアメリカ大陸の富を独占していたスペイン、ポルトガルの商船や港を襲いまくった。
略奪で得た巨万の富を女王や出資した貴族に配ったので、高貴な方々はじめイギリス国民の人気は高く、晩年アルマダの海戦では提督の一人としてスペイン無敵艦隊を打ち破ったりもしている。
で、かれの魅力的なところは、その偉大さではないんだ。
というか、偉大さと同じ位歴史に残っている彼の卑怯で利己的な振る舞いなんだ。
彼は、マゼランに次いで世界で二番目に地球一周を成し遂げてもいる。
マゼランは途中で死んでしまったから、生きた船長としては世界で初めての偉業だ。
でもそれを彼は意図してやったわけじゃない。
アメリカ西海岸の港を襲って、カンカンになったスペイン海軍から必死で逃げているうちに地球を一周してしまったんだ。
途中、逃げ遅れた部下を見捨てて帰り、後に生きて帰ったその部下に告発されたりもしてる。
でも、何度も卑怯なこと、馬鹿なことをやらかしつつも、強大な敵に怯まぬ彼の蛮勇と楽天気質は船乗りたちに愛され続けた。
不正義を赦せない性分の君は、こんな暴力と自己中心に満ちた「朗らかさ」には騙されないだろう。
でも、僕はこの人物の俗物さを好ましく感じる。
正義とか理想とか、時に他人を巻き込んだ悲惨を生むそんな綺麗事ではなく、欲望と好奇心だけで行動する彼の単純さ。
臆病だけど正義感の強い君とは、真反対とも思える生き方だけど、どちらも僕は好きなんだ。
交渉の最中、人質の生存を示す場面でこそ本人確認が確実にできる動画を使うべきなのに、そこでは静止画、始めと最後は同じフォーマットの動画。
どう考えても静止画を作成したグループは、人質とのアクセスがなかったとしか思えない。
それが、別の考えを持ったグループの行動であることを意味するのか、静止画を作成した時にはすでに人質は失われてしまっていたということを意味するのか。
どちらにしても、「交渉に応じなかったからこうなった」のではない気がする。
頭の中にある世界と、外の現実が、そんなに違わない仕組みを持ってる人は、人の姿、持つものに惹かれる。
でも、あり有べき世界が、頭の中にしかなくて、その世界を見ている人を本の中とかにしか見出せなくて孤独だった人は、
頭の中身で人を選ぶのさ。
ズレた世界と、ズレた世界、その世界同士もやっぱりずれてるけど、それは持ち寄って。
楽しいことを楽しいと言える
通じるからわがままも言える
そんな場所が一番大事。
世界から溢れ落ちた者だけの幸せ。
何言ってんだか全然わかんないよ。
もうちっと噛み砕いて書いて下さいよ。
頼みますよ。
本物さんほど頭良くないもので、それっぽい事書こうとしたら訳わかんなくなっちゃいました。
もうしません。
いやまて、私には何となくだけど意味はわかったぞ。
文句つけてる杓子も偽物だから、気にせず書けばいいと思うよ。
だいたいこんな書き捨て掲示板の内容、分かる分からん以前にそんなに分かりたいとも思わんだろう。
まあ、「分からない」と言われたのが気になるなら分かりやすく書き直してもいいと思うけど、そんなにへこむことない。
これに懲りずまた何か思いついたら書き込んで下さいな。
何だか自演で煙に巻こうとしているようだが、その手は前にも使ってたよな。
要するに、最初の俺のツッコミも自演でした、っていう事にして何となく勝った気になってるんだろうが、全部ひっくるめて気持ち悪いんだよ。
生産性0の自家撞着、同じ所を回ってるだけで迷宮を気取る厨二病は、オジサンがやるには痛々しいぜ。
まあ気が済むまで勝手にやってればいいけど、やればやるほど滑稽だってことはわかってた方がいいよ。
なに、何人いるの俺wwww
てか、ここに書き込むには「杓子」って名前じゃなきゃいけないって縛りでもあんのかよwwww
なんで自演とかに拘るんですか?
機種がまず違うじゃないですか。
それとも杓子さんは、一時期色んな機種で書き込みして悪戯してた事があって負い目を感じてるのですか?
疑問に感じました。
お元気ですか?
体調にはくれぐれも気をつけて、お仕事頑張って下さい。
ふと、自分の人格が分裂してるんじゃないかと思う時がある。
「金正恩氏の「弱点」を揺さぶる米韓の心理戦」ってニュースの見出しを見た時、「頭部側面装甲の薄さか!?」て思った。
クリトリックリスという、芸術の最底辺。
洗い物をしながら聴いていたら、不覚にも、というか不条理にも?不可思議にも?ある曲で泣いてしまった。
ゾンビに噛まれた彼女と、最期にラブホテルに入った男が、彼女に局部を噛まれて言う。
「俺もゾンビや。明日は遊園地でも行って、幸せそうなカップル食べよっか」
ええやん。
そうやん。
生まれながらの悪って、あるだろうか。
「悪」ってのは社会が決めるものだから、例えばの話、生まれつき放電してきまう体質の人がいたとして、社会の迷惑だからそういうのは殺してしまおうと、法律でそう定められたら彼らは生まれながらの「悪」になる。
生まれてきたことを否定される存在。
ただ生きているだけで死を望まれる存在。
社会がそんな残酷な事を望みはしない、などと根拠の無い楽観はしていない。過去にそんな状況を生み出す民族差別や血統差別が至る所にあったのは知っている。
だけど、社会が私や私の家族を滅ぼそうとするなら、社会は私の敵になる。
社会をそんな方向に変えたいと思うものは私の敵になる。
社会がそんな方向に進む事を受け容れる者は私の敵になる。
当たり前だ。
自分を殺しにくる者のルールなど、獣の都合と同じで、襲われる者にとって忖度する理由がないからだ。
私は社会が馬鹿に引きずられて無垢な者を殺すようになってから、社会との戦いを始めようとは思わない。社会がまともな内に、それを歪ませようとする馬鹿と戦いたい。
空きっ腹に酒。
なんでや!
かっこええやん!