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なに、何人いるの俺wwww
てか、ここに書き込むには「杓子」って名前じゃなきゃいけないって縛りでもあんのかよwwww
何だか自演で煙に巻こうとしているようだが、その手は前にも使ってたよな。
要するに、最初の俺のツッコミも自演でした、っていう事にして何となく勝った気になってるんだろうが、全部ひっくるめて気持ち悪いんだよ。
生産性0の自家撞着、同じ所を回ってるだけで迷宮を気取る厨二病は、オジサンがやるには痛々しいぜ。
まあ気が済むまで勝手にやってればいいけど、やればやるほど滑稽だってことはわかってた方がいいよ。
いやまて、私には何となくだけど意味はわかったぞ。
文句つけてる杓子も偽物だから、気にせず書けばいいと思うよ。
だいたいこんな書き捨て掲示板の内容、分かる分からん以前にそんなに分かりたいとも思わんだろう。
まあ、「分からない」と言われたのが気になるなら分かりやすく書き直してもいいと思うけど、そんなにへこむことない。
これに懲りずまた何か思いついたら書き込んで下さいな。
本物さんほど頭良くないもので、それっぽい事書こうとしたら訳わかんなくなっちゃいました。
もうしません。
何言ってんだか全然わかんないよ。
もうちっと噛み砕いて書いて下さいよ。
頼みますよ。
頭の中にある世界と、外の現実が、そんなに違わない仕組みを持ってる人は、人の姿、持つものに惹かれる。
でも、あり有べき世界が、頭の中にしかなくて、その世界を見ている人を本の中とかにしか見出せなくて孤独だった人は、
頭の中身で人を選ぶのさ。
ズレた世界と、ズレた世界、その世界同士もやっぱりずれてるけど、それは持ち寄って。
楽しいことを楽しいと言える
通じるからわがままも言える
そんな場所が一番大事。
世界から溢れ落ちた者だけの幸せ。
交渉の最中、人質の生存を示す場面でこそ本人確認が確実にできる動画を使うべきなのに、そこでは静止画、始めと最後は同じフォーマットの動画。
どう考えても静止画を作成したグループは、人質とのアクセスがなかったとしか思えない。
それが、別の考えを持ったグループの行動であることを意味するのか、静止画を作成した時にはすでに人質は失われてしまっていたということを意味するのか。
どちらにしても、「交渉に応じなかったからこうなった」のではない気がする。
海賊の話をしようと思う。
僕が海賊を好きなのは、16世紀のイギリスの海賊船長、キャプテン・ドレークが大好きだからなんだ。
キャプテン・ドレークは、海賊女王として有名だったエリザベスTのもと、一種の国営海賊として、先にアメリカ大陸の富を独占していたスペイン、ポルトガルの商船や港を襲いまくった。
略奪で得た巨万の富を女王や出資した貴族に配ったので、高貴な方々はじめイギリス国民の人気は高く、晩年アルマダの海戦では提督の一人としてスペイン無敵艦隊を打ち破ったりもしている。
で、かれの魅力的なところは、その偉大さではないんだ。
というか、偉大さと同じ位歴史に残っている彼の卑怯で利己的な振る舞いなんだ。
彼は、マゼランに次いで世界で二番目に地球一周を成し遂げてもいる。
マゼランは途中で死んでしまったから、生きた船長としては世界で初めての偉業だ。
でもそれを彼は意図してやったわけじゃない。
アメリカ西海岸の港を襲って、カンカンになったスペイン海軍から必死で逃げているうちに地球を一周してしまったんだ。
途中、逃げ遅れた部下を見捨てて帰り、後に生きて帰ったその部下に告発されたりもしてる。
でも、何度も卑怯なこと、馬鹿なことをやらかしつつも、強大な敵に怯まぬ彼の蛮勇と楽天気質は船乗りたちに愛され続けた。
不正義を赦せない性分の君は、こんな暴力と自己中心に満ちた「朗らかさ」には騙されないだろう。
でも、僕はこの人物の俗物さを好ましく感じる。
正義とか理想とか、時に他人を巻き込んだ悲惨を生むそんな綺麗事ではなく、欲望と好奇心だけで行動する彼の単純さ。
臆病だけど正義感の強い君とは、真反対とも思える生き方だけど、どちらも僕は好きなんだ。
どういたしまして。
勝手な意見を書き散らすだけの板が、ちょっと盛り上がって楽しかったです。
ここで、なぜ僕が「環境」レスを特に取り上げたのか、一言。
僕は、他人のものの見方を、理解せずに否定するという行為が嫌いです。
2chによくある
「哲学は人生を生きる指針を教えてくれるよな」
と言うのに対して
「何言ってんの、哲学は科学の正当性を証明する学問だよ」
とレスするようなアレです。
キリスト教の影響下にあった西欧人にとっては、「(神に対しての)科学の正当性を証明する」ということと、哲学が「人生の指針となる」こととは、前者が無ければ後者が成立しない不可分なものでしたが、神がそんなに個人の世界観に口を出さない日本では、その二つが全く違う事柄に思われるという、それだけの事なのに。
自分と異なる意見に出会ったら、それを理解し、「ふーん、そういう考えもあるんだな」でいいじゃないですか。
相手の言い分を理解した上で異論があれば、「でもここはこうじゃないの」と言えばいい、そこからは有意義な議論が生まれるでしょう。
で、頭ごなしに「あなたは間違ってます。○○の意味はXXです」などと決め付ける言い方はどこから来るのだろう、と考えた時に、あ、小学校の先生でそういうの居るよな、と思ったわけです。
生徒にものの見方考え方を強制するような決め付け授業。それに乗っかって「何でそうなるの?」と聞く生徒に「○○先生がそう言ってただろ、バ〜カ」とか言っちゃう奴。
そんな色々が思い出されて、なんだかむしゃくしゃしてやった、後悔はしていない。
俺が荒らしました。すみません。
おはようございます
荒れてる掲示板感!
自演ってばれてるかな?
なんでこのタイミングで環境について反論してくるんですか?
全部後付けで困ります。
環境環境てうるさいんじゃね?
キャッチフレーズや標語、短くまとめられた文章は、人の印象に残りやすい。
「自然は大切です」「イジメはいけません」と、キーワードと組み合わせて児童の情操教育にも多用される。
自然=善いもの、イジメ=悪いもの、という単純な図式は子供にも呑み込みやすいからだ。
しかし、そうした教育には副作用もある。
キーワードが、特定の印象と結び付いて覚えられてしまうのだ。
「環境」という言葉がある。
あるものの外部から影響を与えるもの全般を表す言葉だ。
ハムスターにとって、カゴやら回し車、置かれてる部屋の温度や飼い主がそれに当たる。
ネットユーザーにとってはプロバイダの回線速度などがネット環境、ゲーム機器にとってはディスプレイの解像度やコントローラの性能がゲーム環境だ。
何かを取り巻く周囲の状況は何でも、一般に「環境」と呼ぶのだ。
だから、写真家の言う「環境光」や録音技術者の言う「環境ノイズ」、ソフト屋の「環境変数」も単に外部からの何かを表す。別に自然の光や鳥の囀り、森の変数なんて意味は無い。
以前、私は「人類の文明は、個人にとっては『環境』だ」という意見を掲示板に書いた。
すると、「個が組織となり伝統、文化を築いてきたのが環境です。環境にはもうひとつあります。それは太陽から始まり植物そして水(といった人間を取り巻く自然です?)」という不思議なお叱りを頂いた。
その人にとって「環境」という言葉は、単に「あるものを取り巻く外部要因」という意味ではなく、人類規模の大切な何かを表すものらしい。
これは恐らく、小学校などで「(自然)環境は大切」「(自然)環境は掛け替えのないもの」といったキャッチフレーズ授業に触れて、環境=人類を取り巻く環境、という印象が刻み込まれてしまったせいなのだろう。
「個が組織となり伝統、文化を築いてきたのが環境です。環境にはもうひとつあります。それは太陽から始まり植物そして水…」
キャッチフレーズ授業の作文で、精一杯いい評価をもらおうと背伸びする小学生の文章だ。
確かに自然環境の大切さは彼の心に刻まれているかも知れないが、某国の将軍様を讃える定型文のようなこんな言葉をひねり出すために、かれは「環境」という言葉の自由な使い方を失ってしまった。
社会の不安定化を受けて、道徳教育の強化を叫ぶ人達がいる。
しかし、こんな風に道徳と引き換えに論理的思考を奪われる子供が増えるなら、長い目で見てはたしてそれは国の利益となるのだろうか。
ぼくは飲み会で家族狩り見れない。
残念極まりないんじゃね?
だからさ、なんでそんなに進化の道筋にこだわるのさ?
例えば、古代文明が遺したとても大きな機械があったとしよう。
その一つの部品の存在意義を知りたいと思ったら、君は「神がそう望んだから」という説明で納得するかい?
うーん。するかも。
…古代文明とか言ったのが間違いだったか。
じゃあ、既存の巨大システムのソースを解析してるとき、ある関数の存在意義を知りたいと思ったら、君は神の意志を探るかい?
いや、そんなことはしないな(笑)
だろ?
それがシステムの中でどんな役に立っているか、本当のところを知りたいだろう?
例えその理由が、ある数字の端数を切り捨てるため、というだけであっても、それがその関数の存在理由として辻褄が合っていれば、「そんな風に解釈することはその関数に対する侮辱だ」なんて思わないよな。
そりぁあな。
つまりそういうことさ。
僕は「全ての生命は神に愛されている」とかいうのではない、本当のところの自分の存在意義を知りたいだけなんだ。
何かの端数を切り捨てる為って分かっちゃったらどうすんの、それで。
だったら、端数を切り捨てるさ、それが人の迷惑にならないことならね。
それで僕は幸せなんだ。
謎なのは、効率の良い冷却システムである発汗を装備していながら、なぜ僕はその水滴を不快に感じるか、ってことだ。
なぜ僕達は汗まみれでいることを嫌がるのか。
なぜ人類はそんな風に進化してしまったのか。
思いつく理由は二つほど。
汗が乾かず体表を伝うような高温多湿の環境は有害なので、速やかにそこから離れる行動を取るような、その状態を不快に感じる個体が生存に有利だったから。
あるいは、感染症などの原因になるので、汗に限らず泥水や汚物など湿ったものが体表に付着する事自体を嫌うことが生存に有利だったから。
まあ、どちらかに決める必要も無いが。
何にしろ、不快感による行動の制御ってのは、自然界の定番だ。
お陰で僕は今日も背中をつたう汗を気にするわけだ。
朝から汗が背中をつたう。
気持ち悪い。
こんな時、人間にはなんて不快な機能が付いているものか、とか思ってしまう。
でも、少し風が吹くとその背中が涼しくなる。
気化熱。
人間には、なんて素敵な機能が付いているものか、と感じる。
例えば自動車の表面加工で、ボンネット内の温度が一定以上になると、微細な穴から水分が出るというのはどうか。
走行中ならエンジンルームの温度が劇的に下がる。
エコだ。バイオインスパイアードだ。
だけど、蒸し暑いある日、停車中の車のボンネットにふと手を着いた時に、ペトっと湿った感触に、やはり「気持ち悪い」と思ってしまうんだろうなあ。
個が組織となり伝統、文化を築いてきたのが環境です。
環境にはもうひとつあります。それは太陽から始まり植物そして水
郷里の新しい名物となった大きなビルが遥かに見える。
僕の毎日の通勤途中の風景だ。
朝から日射しが空気を灼くこんな日でも、電車は快適に空調され、早馬より速いスピードで国境の山の下をくぐる。
昔沼地だった見晴るかす家並みを眺めて、こんな速度で進化を遂げた生き物はこれまでに無かったろうな、などと僕は思う。
そして、進化という言葉から別の考えが浮かぶ。
僕が思いを馳せた江戸時代の人と比べて、今の僕達は進化しているか?
むしろ、肉体の機能的には退行しているのではないか。
今の快適な生活は、個人の機能の進化というより、環境の進化によるものではないか。
その環境を生み出す知性が進化したのだと言ったところで、その知性でさえも積み重なった先人の知性の上に立って届いた高みで、個人からすればその学ぶべき科学知識もやはり環境の一部と言える。
僕等はただその環境に適応して生きているだけではないか。
環境の進化がさらなる環境の進化を産み、僕らの暮らしは変わり続ける。
CPUは変わっていない。
拡張機能、アクセサリー、オプション、外部デバイスが僕等を高機能にしたのだ。
コンピュータに例えたところで、陳腐なレトリックが浮かぶ。
『僕達は外部デバイスのみを拡張し、互いを容易に破壊できるようになった。だか、OSのバージョンアップが遅れているのではないだろうか』
ビートルズを聴けば世界が平和になると結論づけても仕方がない。
だけど、僕の強さ、速さ、賢さのほとんどは自分のものではなくて『環境』なんだと知ることは僕には意味のあることに思えた。
自分が過去にしていた素敵な事をすっかり忘れていて、随分時間が経ってから再発見して嬉しいって、あるよね。
例えば、詰め替え用シャンプーの買い置きを思いがけず見つけた時のような、そんな喜び。
そんな事がついさっき、僕の身にも起こったんだ。
何って、つまり詰め替え用シャンプーの買い置きを思いがけず見つけたんだ。
マレフィセント見た。
ネタバレ有り
アナ雪とオチ丸カブリじゃん。
俺の推理短絡的じゃね?
タイに多数の子供を作った24歳男性の動機。
親から多額の遺産を相続したが、コミュニケーション障害気味で、自分で運用なんて出来ない。
周りの親戚、知り合いなんて信用できない。
ただ貯蓄を食い潰して生きるとなると、日本では贅沢な暮らしはできない。
タイなら物価安いから王侯貴族の暮らしが出来るんじゃね?
実際タイで暮らしてみると、10万20万で贅沢三昧できた!
ここに住もうか、でも、信頼できる人もいないとこで永住なんて、コミュ障の僕には辛すぎる。
そうだ、子供を作って周りを固めればいい、今のうちから作っておけば、僕が50になる頃には頼り甲斐ある大人に育つ。
タイなら、卵子提供とか代理母とかで、1000万もあれば何十人も子供が持てる。
僕に従順な身内に囲まれて、富豪の暮らしを一生続けられる、僕天才!
と、推理した。
サイコパスって、得体の知れない怪物を思わせる言葉なもので、漫画や小説に便利に使われ過ぎた。
でも、人間はサイコパスなんだよ。
サイコパスだからネアンデルタール人を圧倒出来たんだよ。
石で殴れば相手は死ぬ。
それが分かってて出来る者が戦に勝ってきた。
自分と同じ部族でない奴は殺してもいい。
自分の郎党でない者は、自分と同じ国でない者は、殺してもいい、そう思える事が、人類の武器だった。
岩明さんの「ヒストリエ」に出てくるスキタイ人が、ローマ人を躊躇なく殺戮する様子はまさにサイコパスだ。
ただ、現代社会の中で、感情移入出来る集団を一つも持たない孤立した人格が、自分以外の全ての生命に対して無慈悲である様子を見たとき、人はそれをサイコパスと呼ぶのだ。
サイコパスはだから現代病ではない。
社会が解体されて、拠り所を失う人が増えると、反社会的で猟奇的な殺人は増える。
明治時代がそうだった。
第二次大戦直後もそう、おそらく戦国時代後半から江戸初期もそうだったろう。
サイコパスというのは特別な先天的欠陥ではなく、人間に本来的に備わった怪物的要素を誤って育てた結果なのだ。
サイコパスは犯罪の原因ではない。
結果なのだ。
どんな開発でも、情報の共有ってのは大切なのよ。
それは、良いものを作るために必要ってだけじゃなく、無駄なストレスを受けないためにも大切な事なのよ。
何かのプログラムで、ある操作ミスをされると、電源リセットしてもらうしかない状態になるとしよう。
改修は可能だが、それには構造的な変更が必要だとしよう。
そういう時、良い解決法が思い付かないからと、そのバグについて黙っている人がいる。
もとより操作ミスしなければ起こらない事、と高を括っていると、現場でそれが発生し、大きな問題になる。
システムは三日間で大改修を命じられる。
解決に非常なコストがかかる、致命的とは言えないバグは、報告さえしておけば何てことはなくなる。
周知さえしておけば、現場対応で「そのミスしちゃうと、リセットお願いすることになるんですよ〜」と言うだけで済む。
つまり、既知なら仕様で済むものも、未知だとバグとされるんだ。
だから、小さく手強い面倒は単に報告を上げよう。
情報の共有は、それ自体解決策の事がある。
昔、セーラームーンというアニメがあってだな。
それを大人が見ると、この14歳女子、妖魔とか人間じゃないし悪い事するからと言って、何人もコ○しておいて次の日学校で普通に笑ってるとかサイコパスかよ、コ○し合いとかしたらもっと荒むだろうフツー、とか、このルナって猫、月野うさぎが有能サイコパスで敵を全滅させられたから良かったものの、初戦でバラバラにされてたら、「ちっ、使えねえ」って次の候補口説きに行ってたのかよ、とんでもねえ魔獣だな、とか、これ全員親バレレベルの怪我さえしないで一方的に敵をコ○し続けられたから良かったものの、何人か戦死してたら雰囲気悪くなってたろうな、とか思ったわけだが。
そう言う魔法少女アニメへの、フルスイングツッコミ。
今日2月10日は平塚らいてうの誕生日だという。
Google先生に教えてもらった。
私は、Googleのロゴにリンクされた簡単な説明を読んだ。
らいてう女史は、名門女学校を卒業したが心中未遂事件を起こし、不名誉を嫌った女学校に、同窓会名簿から抹消という処分を受けたという。
当時は、良家の子女たるもの感情に流されてそのような不祥事を起こすなど以ての外、であり、良識ある市民から見て彼女は、眉を顰めたくなる「イタい人」であったのだ。
しかしその後彼女は、女性解放運動の旗手となり、日本の女性の権利拡充に貢献する。
ここで、私は「しかし」と言ったが、実はこれは少しも「しかし」ではない。
今そこにある規律、今世を統べる権力に逆らうには、行儀の良くない、「イタさ」こそが必要なのだ。
江戸末期から昭和に至る日本の歴史には、都度々々そういった「イタい」人たちの奮闘がちりばめられている。
子供の頃、教科書で習った「田中正造」や「平塚雷鳥」、「樋口一葉」「夏目漱石」などは、皆きちんとした『偉い人』だと思っていた。
しかし、最近になり中国や韓国での人権・民主主義の立ち遅れを目にするにつけ、それが間違いであることに気づいた。
既存の権力に楯突いて、弱者の利益を守ろうとする運動は、既存の権威からは生まれない。
中国や韓国がいくら行政主導で民主主義を実現しようとしても(中国政府はそんなものを実現したいとも思っていないが)、「自由な発言」の台本を読ませることから自由な発言など生まれない。
当たり前のことだが、民主主義はお上に逆らう民衆それ自身によってしか獲得され得ないのだ。
強い者の意見に従いたい、大多数と話を合わせたい、そういう社会性動物としての、いわば「猿の本能」に安住できず、自らの感じる真実のみを信じ続ける異端。
それを(西欧ほど積極的ではないにしても)受け入れる度量があったからこそ、日本は近代国家として発展できたのだ。
日本の電子技術は盗まれたかもしれない。
日本の素材技術は盗まれるかもしれない。
しかし、100年かけて育てられた、日本の「自由」や「民主主義」は盗めない。
そればかりは、自分で苦しんで生み出す他ない。
どんなにAKBがヒットチャート上位を占めようと、どんなに懐かしのアニメ実写リメイクが劇場公開されようと、日本の若い才能たちは今も血を吐くような歌を、映像を作り続けている。
そういう人たちが食っていける程度には、彼らの叫びに耳を傾ける人々が居る。
アベノミクスとかクールジャパンとかじゃなく、庶民が支えるそういった文化環境があること。
それが日本の力だ。
普通の、あるいは「底辺」と呼ばれる人々が、声を上げ、声を聞き、繋がる事。
それが日本のインフラだ。
決して盗めない、価値とも思われないそうしたものが、日本を「アジアで唯一の民主国家」たらしめているのだと、私は思う。